何に支えられて生きるのか
2022年1月2日 降誕節第2主日
(エルサレム訪問)
ルカによる福音書 第2章41-52節
1月6日の公現日をもってクリスマスの期間は終了します。礼拝で朗読される聖書は、イエス誕生の物語からイエスの生涯、そして十字架の苦難へと繋がっていきます。本日与えられました聖書は、クリスマス物語からイエスの生涯へのつなぎの物語です。イエスの少年時代を記しているのは聖書でこの一つだけです。イエスが両親と過越の祭りを祝うためにエルサレムに詣でた時の出来事が記されています。敬虔なユダヤ教の家庭に育ったイエスは、その習慣に従って毎年の過越の祭りの際には欠かさず神殿に詣で、熱心な信仰生活を続けていました。ところがその帰り道、イエスがいないことに両親は気付いたのです。驚いたことに既に一日が過ぎていました。両親は慌てて引き返し、三日目にイエスを神殿で見つけました。イエスを見失って三日目にエルサレム神殿でイエスを見出す。もしかして、イエスが十字架に死んでから三日目によみがえりという復活物語が予見されているようにも読めます。そこで見たのは神殿で熱心に神の言葉に聞く姿、神との交わりに生きるイエスの姿とでした。
このようなイエスを母マリアは咎めました。親とすれば至極当然のこと、ほとんどの親がこう言う対応をすることでしょう。これに対するイエスの答えは親を戸惑わせるものでした。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」このイエスの答えの中に「自分は神との交わりに生きる。神から委ねられた役割を担って生きる。」という決意が示されています。これからイエスが救い主としての歩みをなし始めることが予告されているのです。しかし、そのことはまだ両親には理解できるはずもありません。ただ、マリアはこの理解し難いことを、捨て去るのではなく、心に納めていました。今わからなくてもやがてわかる時が来るから、その時まで忍耐して待つというこのマリアの姿勢は信仰の姿勢としてとても大切な模範的なものです。意味不明な点を残しながら、その場は収まり、イエスは郷里へと帰り、両親に仕えました。まだ救い主としての活動を始める時は来ていなかったからです。その備えとして、イエスは両親に仕えました。さぞかし親孝行をしたのでしょう。そして神と人から愛されてイエスは救い主として神の御業を担う身支度を成したのでした。
私たちも、神様からそれぞれに役割をいただき、それを担っていきます。その時に、イエスのように神の言葉に熱心に聞く姿勢を大切にしたいと思います。時には神のご計画、神のみ心が見えないこともあるでしょう。その時はマリアのようにわからなくても、いずれわかる時が来ることを信じて、心に納めてその時を待つそのような姿勢も大いに大切です。そのようにして神様から委ねられた役割を大切に担いつつこの新しい年を歩んで参りましょう。
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