1月9日 説教要旨

神の心に適う者とは?

2022年1月9日 降誕節第3主日
(イエスの洗礼)
マルコによる福音書 第1章9-11節
牧師 木谷 誠

 教会の暦では降誕節ですが、聖書朗読はイエス・キリストの生涯をたどります。この流れは3月2日から始まる受難節(レント)そして4月17日の復活祭(イースター)まで続きます。昨年10月24日の降誕前第9主日から今年の6月5日の聖霊降臨までの期間は神の救いの御計画を主イエス・キリストを中心にたどる「キリストの半年」です。その中で本日は、イエス・キリストの洗礼の物語をご一緒に味わってまいりましょう。ここでイエス・キリストが受けた洗礼は洗礼者ヨハネによってなされた洗礼です。神の前に自分の罪を認め、水の洗いによって清めていただき、新しい生き方を始め、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ための儀式でした。その中心となるメッセージは悔い改めです。そのヨハネの洗礼をイエスが受けたということはイエスが罪人の一人となられたということを意味しています。これはどういうことでしょうか?
 これは神が人となられたというメッセージです。一つには神の謙遜の表れです。いと高き神のひとり子が人間の姿となり、罪人の一人となられました。それほどまでにご自分の身を低くされた神の謙遜が現れています。私たち人間はもともとさまざまな弱さと罪を抱えていますから、自らを罪人と認めることは当たり前のことです。しかし、いと高き神のひとり子が自らをこれほどまでに低くされたということは、決して当たり前のことではなく、驚くべきことです。その神の謙遜には、それほど身を低くしてでも、私たち人間に連帯して罪から救い出そうという神の愛の強さを深さが表されています。二つ目にそれはイエス・キリストの神への従順の表れです。神からイエス・キリストに課せられた使命はとてつもなく苦しく重いものでした。しかし、それが神の御心ならば、それに従うというキリストの従順がそこに表されています。それはいかに大きな苦しみであろうともその身に引き受けていく凄まじいまでの決意の込められた従順でした。三つ目はキリストの神と私たちへの奉仕の表れです。イエス・キリストはその生涯をただひたすら神と人への奉仕のために用いられました。神の御心に従い、人々を愛し、神の国について教え、病を癒やし、悪霊を追い出し、友なき者の友となられました。そのような徹底した奉仕の生き方を選び取るという決断がイエス・キリストの洗礼の出来事の中に表されています。
 そのような決断をもって、ヨハネの洗礼を受けたイエス・キリストに聖霊が鳩のように降ってきました。この聖霊は神から与えられる目に見えない力であり、イエス・キリストの働きの原動力です。謙遜に身を低くし、神の御心に従順に従い、神と人とに仕える奉仕の決断をしたイエス・キリストに聖霊は降りました。聖霊は与えられました。この聖霊をいただくことによって全てが可能となっていったのです。
 私たちもイエス・キリストを主と信じる者ならば、神はこのイエス・キリストの謙遜、従順、奉仕の歩みへと導いてくださいます。しかし、それはとてつもなく困難な道です。人間的な知恵と経験の世界では実現不可能なことでしょう。しかし、この物語は神に仕える決断をしたイエス・キリストにそれを成し遂げる力として聖霊が与えられたことが示されています。このメッセージは私たちにとってとても重要です。神に従う決断をなした者にはそれを成し遂げる力も与えられるということです。私たちもイエス・キリストに倣って、神に従う歩みをなそうという決断をなす時、神はイエス・キリストと同様に私たちにも聖霊をくださるのです。謙遜、従順、奉仕の生涯を全うされたイエス・キリストには、とてもとても及ばない私たちですが、それでも神に従う決断をする時、神は聖霊を注いでくださいます。それによって、私たちは、それぞれ私たちの個性に応じて、キリストに従う歩みを全うできるのです。私たちにとって大切なことは、神に従うことができるかどうか、あれこれ迷って考えることではなく、決断することです。「神様、従います。どうか用いてください」と。その時、神様はその決断を喜び、それを成し遂げる力、すなわち聖霊を与えてくださるのです。この聖霊こそ、一切を可能にする神から贈り物です。
この一年、神に従う決断を新たにし、聖霊を祈り求めて歩んでまいりましょう。

この記事へのコメント