呼ばれています
2022年1月16日 降誕節第3主日
マルコによる福音書 第1章14-20節
牧師 木谷 誠
信仰を持つとはどういうことでしょうか?一つは、「神(イエス)からはどう見えるんだろうか?」とか「神(イエス)ならどう思われるのだろうか?」を第一に考えることだと思います。今、起こっている出来事をどう受け止めるか、どう見るか。その時に、自分の経験や知識、人の意見よりも、「神からは、イエスからはどう見えるのだろうか?」を先にするということです。具体的には聖書の言葉に聞き、祈る中で、今起こっている出来事をどう受け止めたら良いかが示されます。
本日の聖書は、ヨハネ逮捕の出来事から始まります。このヨハネは洗礼者ヨハネです。彼は、預言者として、神様から受けた言葉(預かった言葉)を人々に伝えていました。また、神様の御心に従って、ヘロデ王の間違いを指摘していました。その神に仕える預言者が、権力者によって捕らえられました。神の働きを人間の横暴が踏みにじっています。とても悔しいことです。「神は横暴な王よりも弱いのか、それなら神を信じることに意味があるのか」と言いたくなります。心が折れそうになります。しかし、それはあくまでも人間の見方です。ヨハネの逮捕の出来事と同時にイエスが登場します。その第一声は「時は満ちた。神の国は近づいた。」です。人間の見方なら逆でしょう。「時はまだ、神の国は遠くなった。」しかし、神(イエス)の見方は違います。望みが消えるような状況の中で、神の働き、神の国は押しつぶされてはいません。むしろ神の国はそこから力強く始まっていくのです。
その時に必要な私たちの応答は「悔い改めて福音を信じなさい」とのイエスの呼びかけに従うことです。悔い改めとは、「神様と向き合って、自分の罪や弱さを認め、新しい生き方を始める」ということです。ヨハネが逮捕された出来事を聞いて絶望する自分を改めるということです。私たちが「神は敗北した。もう望みはない」という見方を改めることです。
この出来事は「神の敗北」ではない。この出来事の中で神の時は来ている。私たちが神の国(神の支配)は近づいているのだと受け止めることです。洗礼者ヨハネは横暴な権力者によって押しつぶされ、その働きは意味のないものとなったのではありません。洗礼者ヨハネの悔い改めの勧めは、神様の救いの御計画の中で、イエス・キリストの登場のための良い準備として大切な意味が与えられています。
新型コロナウイルスの第六波が来てしまいました。加えて今朝は津波まで・・・わたしたちは、うんざりして、心が折れそうになります。しかし、わたしたちは、その中でも、神様の御業は確かになされているのだとこの聖書の言葉から励ましをいただきたいと思います。
そして幸いなことに、そのような神様の御業の働きの実現のために、神様は人間をお呼びになるということです。そこに参加させていただけるのです。イエス様はそのために弟子たちに声をかけられました。私たちも呼ばれています。
この一年の始まりは大変残念なことに新型コロナウイルス第六波で始まってしまいました。しかし、その中でも、「時は満ちた。神の国は近づいた」との聖書の言葉を信じて、心折れることなく、神様の御業に参加してまいりましょう。私たちは「呼ばれています」。
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