誰に聞くか
2022年3月27日 受難節第4主日
(主の変容)
マルコによる福音書 第9章2-10節
牧師 木谷 誠
私たちは、今、受難節を過ごしています。本日の礼拝の主題は「主の変容」です。私は子どもの頃、聖書カルタでよく遊びました。その取り札の一つが「山の上で光り輝くお姿となる」でした。そのようなこともあって、このお話にはなんとなく親しみを感じておりました。でもいざ読んでみるとよくわからないところもありました。そのようなことにも触れながら、この物語のメッセージを分かち合いたいと思います。
イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登られました。山は聖書の中では(聖書以外でも、日本でも)神と出会う聖なる場所です。そこでイエスは光り輝く姿でモーセ、エリヤと語り合っていました。これはどういうことなのでしょうか?
モーセは出エジプトの出来事においてイスラエルの民を導き、律法を神から受けた人物です。エリヤは列王記上17章からの物語で描かれている預言者の代表的な人物です。この二人を合わせると「律法と預言者」となります。ですからモーセとエリヤは旧約聖書の時代(イエス以前の時代)を代表する二人ということができます。イエスはこの二人と語り合っていました。モーセとエリヤによって繋がれてきた旧約における神の救いの御業を引き継ぎ、それを完成する神のひとり子がイエスであるということがこの出来事の中で示されています。イエスの隠されていた神のひとり子としての栄光がただ一度示された瞬間でした。この奇跡のような瞬間に対するペトロの言葉は意味不明です。なぜこのような言葉になったのでしょうか?それはここに書いてあるようにペトロはこの奇跡の瞬間に応える言葉を持っていなかったからだと思います。ただ、この瞬間を記念したい一心だったのでしょう。
7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」これがペトロの言葉に対する答えでした。大切なことは語ることではなく、聞くことです。だからと言って誰にでも聞いて良いわけではありません。誰に聞くかはとても大切です。聞くべき方は誰なのか?それはイエスです。この場面からモーセもエリヤも去りました。しかし、幸いなことにイエスだけが残ってくださいました。この時の栄光の姿のまま、モーセやエリヤと共に天にお帰りになっていたならば、イエスは十字架の苦しみを受けなくても済んだことでしょう。しかし、イエスは私たちを愛し、寄り添い、導くため、十字架で命を捧げて、罪の赦しを実現するために地に残ってくださいました。ここに神の深い愛の御心があります。この愛に感謝し、どのような時にもイエスに聞く者として歩んで参りたいと思います。
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