4月3日 説教要旨

命を献げるために

2022年4月3日 受難節第5主日
(十字架の勝利)
マルコによる福音書 第10章32-45節
牧師 木谷 誠

 受難節を過ごしています。イエスはいよいよエルサレムに向かって歩みを始めました。イエスが先頭に立ったことで、弟子たちは驚きました。なぜでしょうか?この頃にはユダヤ人たちはもう既にイエスへの反発を強めていたのでしょう。それでもイエスは敢えて先頭に立って身をさらしたのです。これはとても危険なことだったと思います。だから弟子たちは驚いたのでしょう。そしてイエスは十字架の死と復活を予告しました。
 この後のヤコブとヨハネの反応がよくわかりません。これはどういうことなのでしょうか?おそらくヤコブとヨハネに限らず、弟子たちは皆、イエスの言葉を理解していなかったのだと思われます。彼らは十字架の死と復活の予告を聞いても、理解しませんでした。そして、相変わらずイエスに対して自分達の「メシア」のイメージをイエスにあてはめて、その実現を期待していたのでしょう。それはイスラエルをローマ帝国の支配から解放する政治的なリーダーという「メシア」のイメージです。イエスがイスラエルの新しい王となる時、その傍らで高い地位を得たいとヤコブとヨハネは願ったのです。
 イエスは、この二人に問いました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」この問いに対して二人は「できます」と答えました。
この時点ではおそらく二人はイエスの問いの中に出てくる「杯」や「洗礼」の意味を全く理解していなかったことでしょう。二人の願いに対して、イエスは、全ては神がお決めになることであるから、それを自分に願い出ることには意味がないと言われました。
この二人がイエスに願い出たことは、他の弟子たちにとっては、悪質な「抜け駆け」に思えたのでしょう。他の弟子たちもイエスが「メシア」として、イスラエルをローマの支配から解放し、独立を取り戻して王になる時、そこで高い地位を得たいと他の弟子たちも願っていたのでしょう。
 イエスは、弟子たちに対して、十字架の苦難と死の本当の意味、すなわちイエスがこの地上に来られた本当の意味を伝えます。
45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
 イエスの使命はいわゆる当時の一般的なメシア像とは全く異なっていました。それは、人々に神の愛を伝え、愛する故に身を低くして、へり下り、仕える者となることでした。そしてその究極として、イエスは、世の人々の罪がゆるされるために罪の償い、「身代金」としてご自分の命を献げました。私たち人間が、繰り返し罪を犯して、その罪が積み重なっていきます。罪は神への負い目としてどんどん増えていきます。あたかもそれは借金のように重くのしかかり、とても自分で払うことができなくなります。そのように積み重なった罪はわたしたちを「罪の奴隷」にしてしまうのです。私たちは罪に囚われて、身動きができなくなってしまいます。そのような私たちの罪を償い、罪から解放するために命を献げることがイエスの「メシア」としての使命なのでした。
 自分を高くして、多くの人々を見下ろし、人々を従えるのではなく、自分を低くして、仕える者となり、遂には自分の命さえも献げるためにイエスは来られたのでした。人間が考えもつかないような大きな愛がここに示されています。そしてそのようなイエスの使命は、私たちの最高の模範なのです。
 多くの人の上に立ち、人々を従えることは、とても魅力的です。しかし、そこにイエスに従う道はありません。そこにイエスはおられないのです。イエスは最も低いところに身を下ろされました。私たちもこの受難節、イエスの十字架を思う時、大切なことは、神のみ前に身を低くすること、へり下ることです。水が低いところに流れるように、神の愛も低いところに流れていきます。そのようにして身を低くして、へり下る時、私たちのために命を捧げてくださった神、イエス・キリストと出会うことができるのです。私たちもこのイエスに従い、へり下って、仕える者として歩んでいきましょう。その時、私たちは私たちのためにご自身の命すらも捧げてくださった愛の神、イエスと出会うことができるのです。

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