4月10日 説教要旨

立て、行こう

2022年4月10日 受難節第6・棕櫚の主日
(十字架への道)
マルコによる福音書 第14章32-42節
牧師 木谷 誠

 本日は棕櫚の主日です。与えられた聖書は、イエスがユダヤ人たちに捕らえられる前に捧げたゲツセマネの祈りの物語です。十字架の苦難と死を前にして、恐れもだえ、「死ぬばかりに悲しい」と語るイエスのことを、子どもの頃の私はひどくかっこ悪いと思ったのでした。なぜイエスはこれほどまでに悲しまれたのでしょうか?
 一つ目の理由はイエスは、十字架の死がどれほど苦しく、痛く、そして惨めで理不尽な出来事であるかをご存知だったからです。この後の受難物語を読みますと、どれほど、イエスの十字架が乱暴な暴挙であったかがわかります。イエスはそれを全て引き受けられました。それがどれほど苦しいことであったかをこのイエスの恐れから私たちは知ることができます。二つ目はイエスは、愛する者たちとの別れを「死ぬばかりに悲しい」と表現されるほど、弟子たちや多くの人々を愛しておられたということです。愛する者との別れは、愛が深ければ深いほど悲しいものです。イエスは、誰よりも愛の深い人でしたから、愛する者との別れを死ぬばかりに深く悲しまれたのです。それは同時に、イエスは、愛する者たちとずっと一緒にいたいと強く願っていたということです。だからイエスは十字架の死を避けたいと願ったのです。
しかし、その際にイエスは「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ることを忘れませんでした。自分の思いではなく、神の御心に従うというイエスの強い信仰が表されています。
 イエスは弟子たちを見捨てることなく、その弱さと罪を受け入れて十字架への道を歩まれます。このイエスの十字架の死によって、わたしたちの罪がゆるされました。そして私たちは神様の愛する子とされ、神との愛の交わりに入れられたのでした。このようなイエ
スの十字架に示された愛と向き合う時、私たちはどう応えれば良いのでしょうか?
 「立て、行こう」とイエスは弟子たちに向かって言われます。どこにでしょうか?もうすぐにやってくる十字架の死です。イエスは苦しみと十字架の死、受難の道を歩んでいかれます。イエスは弟子たちにも「立て、行こう」と声をかけたのです。なぜでしょうか?
 イエスと同じ十字架はイエス以外の人が追うことはできないのです。弟子たちはイエスと同じ十字架を負うことができないから逃げてしまいました。それは弟子たちの弱さと罪の表れであると共にイエスの十字架はイエスにしか負えないということでした。弟子たちはこの後、イエスから逃げてしまいます。彼らは自分達の弱さ、罪深さを嫌というほど思い知らされました。その弱さと罪に沈んだ弟子たちを復活のイエスが励まされました。そして弟子たちは立ち直り、それぞれの十字架を負って再び歩み出しました。そして弟子たちは、それぞれの十字架、すなわちそれぞれに神から与えられた使命を果たしていったのでした。「立て、行こう」イエスはそれぞれに自分の十字架を負って歩み出しなさい。と言われます。そしてその先頭にイエスは立っているのです。イエスと同じ十字架を負うことは私たちにはできません。しかし、私たちはそれぞれの現場でイエスの愛を感じ、それに感謝し、私たちなりの課題を担うこと、自分の思いではなく、神の御心を思い、それに従うことが求められています。そしてそのような歩みの中で聖霊によって、私たちにそれを成し遂げる力が与えられます。大切なことは、祈りつつ、自分の思いを退け、神の御心に従う決断をすることです。棕櫚の主日、イエスのゲツセマネの祈りから私たちはこのイエスの十字架に従い、イエスの歩みに倣う決意を新たにしてまいりましょう。

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