つながって実を結ぶ
2022年5月15日 復活節第5主日 (神の民)
ヨハネによる福音書 第15章1-11節
牧師 木谷 誠
教会の暦ではキリストの昇天から聖霊降臨日に向けて歩んでいます。十字架の死と復活の後、イエスは天に帰られます。弟子たちは地に残ります。そのような別れを見据えつつ、イエスは別れの挨拶を語っています。
本日の聖書は二つの要点に整理されます。一つは「つながり」、もう一つは「実を結ぶ」です。この2点に整理して聖書のメッセージを分かち合いたいと思います。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。第一に「つながり」について、イエスがぶどうの木の幹なら、私たちはぶどうの木の枝です。枝が幹とつながって実を結ぶように、私たちはイエスとつながって実を結ぶのです。イエスとつながらないならば、わたしたちは実を結ぶことができません。私たちがイエスと「つながる」という営みは、具体的には、日々聖書を読み、祈り、礼拝や集会に参加すること、また神様の恵みに応えて愛の業に励むこととなります。
ここで私は大きな問題に突き当たりました。私たちがイエスとつながろうとするから、イエスが私たちとつながってくださるのでしょうか。私たちがイエスとつながろうと努力することが、イエスが私たちにつながってくださる条件なのでしょうか?わたしが悩んだ理由は、以前の口語訳聖書の言葉を覚えていたからです。4節の言葉は、以前の口語訳聖書にはこう書いてありました。「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。」。これならばイエスが私たちにつながる条件は、私たちがイエスにつながっていることになります。しかし、この聖書の言葉は、「わたしも」という意味はありますが、「そうすれば」という意味はありません。私が尊敬する本田哲郎神父の翻訳では「わたしにつながって(わたしの内に)いなさい。わたしも、あなたたちにつながって(あなたたちの内に)いる。」となっています。また最新の聖書教会共同訳でも、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている」となっています。私たちがイエスにつながろうとする努力はもちろん大切です。しかし、それはイエスが私たちに繋がってくださる条件ではありません。私たちがどうであろうと、イエスは私たちにつながってくださっているのです。私たちがイエスにつながろうと努める時、イエスが既にわたしたちにつながっていることに気づくのです。
イエスは私たちより先に私たちにつながっておられます。しかし、そのつながりは私たちが意識して、日々努めないと生きた実を結ぶつながりとはならないのです。このつながりは、イエスが天に帰られた後も途切れることはありません。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。(ヨハネによる福音書第14章16-17節)この「弁護者」、「真理の霊」は、聖霊です。私たちとイエスとのつながりは、聖霊によって守られ、育てられるのです。
第二に「実を結ぶ」ということについて考えてみましょう。「実を結ぶ」とはどういうことでしょうか?経済的な成功でしょうか?社会的に高い地位を得ることでしょうか?名声を得ることでしょうか?全部違います。それらは全て人間的な評価です。「実を結ぶ」かどうかは、神様が評価されることです。それを決めるのは人間ではなく、神様であることを私たちは先ず確かめなければなりません。私たちが、神様の恵みと愛を喜び、それに感謝して、応えて生きること、互いに愛し合って生きること、それが実を結ぶ営みにつながります。それは人間の目には見えないこともあるでしょう。しかし、神様はそれをしっかりと見ておられます。誰も見ていない時でも神様は見ていてくださいます。わかってくださいます。そして豊かに実を結んでくださるのです。
私が岡山で働いていました時、教会の中庭に大きなビワの木がありました。下から見たらどこにも実がありませんでした。しばらくして二階に上がってビワの木を見たら、木の上の方、見えないところにたくさんの実がなっていました。人間の目には見えなくても、神様から見たらちゃんと豊かに実を結んでいるのだなと思わされ、とても励まされました。
私たちもイエスにつながり、感謝し、聖霊によって、豊かに実を結び、喜びに満たされた人生を歩んでまいりましょう。
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