11月6日 説教要旨

信じる

2022年11月6日 降誕前第7主日
(神の選び・アブラハム)
創世記 第18章1-15節
牧師 木谷誠

「もてなしの文化」は、古代の地中海世界、中東からアジアにかけて広く行き渡っています。聖書でもそれは同じです。ヘブライ人への手紙第13章2節には「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」と書いてあります。
 神様の使いは、名刺を差し出したりはしません。神様の使いは知らないうちにやってきます。アブラハムは結果的に神の使いをもてなし、受け入れたのでした。いつでも出会った人を心から受け入れる備えが大切です。そしてアブラハムは子どもを与えられるという神様の祝福を確かめることができたのです。めでたし、めでたし・・
ところが話はここで終わりません。この物語はむしろここからが本番(?)です。そこに聖書の物語の深みがあります。ご一緒に味わって参りましょう。
 サラはこの知らせを聞いて笑いました。この物語を読んでいて笑いについて考えました。普通は嬉しい時、楽しい時、おかしい時、面白い時、人は笑います。しかし、そればかりではありません。テレビでニュースを見ていて、災害で大きな被害に遭った人のインタビューで、大切な家が壊れてしまったのに、被害者の方が笑っている場面を何度も見たことがあります。笑いは複雑です。人間は、悲しい時、絶望している時でも笑うのです。
 サラの笑いにはどういう意味があるのでしょうか?ここで注意しなければならないことがあります。笑ったのはサラだけではないということです。アブラハムも笑っています(創世記第17章17節)。
サラだけでなく、アブラハムも笑いました。このアブラハムの笑いは、サラの笑いと同質です。二人は何を笑ったのでしょうか?二人が笑ったのは神の約束でした。二人の間に必ず子どもが与えられ、多くの子孫に恵まれるという神の祝福の約束を、アブラハムとサラは笑ったのです。すなわち二人は神を笑ってしまったのです。
 この笑いを不信仰、神への冒涜と結論づけるのは、片付けるのは少し単純過ぎます。この笑いは諦めの笑いです。人は希望を失った時にも笑うことがあるのです。
 アブラハムは神の約束を信じて、行先も知らないまま旅立ちました。サラもそれに従いました。ここまでの道のりはとても大変でした。それでも歯を食いしばって、神の約束を信じて旅を続けました。しかし、もう二人とも年老いてしまいました。二人は神の約束を信じることに疲れてしまったのでしょう。そこに大きな問題が潜んでいます。それは神の祝福の約束を信じきれない弱さです。
 この物語は唐突に終わります。どこか余韻の残る文学的には美しい終わり方のように思われます。そして御使の告げる主の言葉には希望があります。14節に「主に不可能なことがあろうか」と書いてあります。絶望に心が折れ、諦め、虚しく笑ってしまう時があります。人が絶望してしまっても、神はそこに希望をもたらしてくださるのです。弱さゆえに陥る罪があります。その弱さを神は憐れんでくださるのです。
私たちもさまざまな問題に悩まされます。心が折れそうになります。諦めそうになります。しかし、希望を失ってはいけません。「もういいか、こんなものかな」と諦めて、思わず笑ってしまう。でも諦めてはいけません。
 神様が私たちに用意してくださっている祝福は私たちの想像を超える大きなものなのです。その約束に期待することをやめてはいけません。信じ続けていれば、必ず神様はそれに応えてくださいます。その信頼は報われます。不信仰に陥っても、悔い改めてもう一度信じ直せば良いのです。神様はゆるしてくださいます。そして信じ続けていれば諦めの笑いが喜びの笑いに変わる日が来ます。「諦めなくてよかった」とサラは思ったことでしょう。
 信じ続けること、期待し続けることは大変難しいことです。それを可能にするのは聖霊の助けです。私たちは聖霊の助けを常に祈り求めることによって神の寄り添いに気づきます。
 この恵みに感謝して、信じ続ける者、寄り添い続ける者として歩んでまいりましょう。

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