使命に応えて
2022年11月20日 降誕前第5主日・
収穫感謝日・謝恩日(王の職務)
サムエル記下 第5章1-5節
牧師 木谷 誠
クリスマスに向けて、本日の礼拝のテーマは「王の職務」です。このテーマを思いながら、ダビデという王について、祈りつつメッセージを求めていました。その中でふと気付かされたことがあります。ダビデは自分から望んで王(支配者)になったのではなかったのではないかということです。
特にこのサムエル記下5章に至る流れの中で、ダビデに特徴的なことはサウル王への忠実です。ダビデはサウル王の家臣として目覚ましい結果を出していました。ダビデの人気はサウル王を凌ぐようになり、サウル王はダビデを妬むようになりました。加えてサウロは神に背いてしまいました。その心の不安も重なって、サウルはダビデを殺そうとしました。ダビデはサウル王と争うことを願わず、逃げました。何度かサウル王の命を奪うチャンスもありました。先に命を狙ったのはサウル王です。だから仮にダビデがサウル王の命を奪ったとしても正当防衛でした。しかし、ダビデは決してサウルに報復しませんでした。どうしてでしょうか?
なぜならダビデにとってサウル王は、主によって任命され、油注がれた人であったからです。サウル王は神から見捨てられていましたが、それでもダビデはサウルを王に任命した主の御心を大切にしたのです。
ダビデは過ちも犯しましたが、その度に悔い改めました。ダビデは過ちを認めることができる人でした。正しい歩みに戻ることができる人でした。そして主なる神を羊飼いとして仰ぎ、従う歩みへと戻っていきました。
ダビデは支配者になろうとしてなったのではありません。ダビデはその生涯を通して、主に仕える者であることを徹底したのでした。ダビデは「支配する者」ではなく、「仕える者」でした。ダビデは「主」になろうとしないで常に「僕」であろうとしました。その主に従う歩みの中で王(支配者)という役割をいただいて、それに忠実であったのです。支配しようとして王になったのではなく、主に仕えることを志していて、結果的に王になったでした。ダビデにとって、王の職務、使命は「支配すること」ではなく、「仕えること」だったのです。
そのようにダビデについて思い巡らしていましたら、ふとマルコによる福音書10章42節以下を思い出しました。
42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエスは、この言葉の良い模範としてダビデをイメージしていたのかもしれません。ダビデは「仕える者」としてへり下って、神に従う姿勢を持ち続けた人でした。同時にそれは人に「仕える者」でもありました。それこそが「王の職務」なのではないでしょうか。そしてその姿をダビデよりも徹底して実践した人こそイエス・キリストなのです。
フィリピの信徒への手紙2:6-8
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
私たちの教会では、皆、一人一人は平等です。そこに違いはありません。私であれば「牧師」という役割を神様からお預かりしています。それは決して「身分」ではありません。牧師という一つの役割分担をいただいているということなのです。ちなみに私は「牧師」という字は「僕として仕える」と書くと思っています。神様と教会、地域に「僕」として仕えることが私が神様から与えられた役割です。
「仕える者」として生きることは難しいことです。どうしたらなれるのでしょうか?私たちは常に聖霊の導きを祈り願うことによって、「仕える者」育てていただけるのです。
私たち皆もアドヴェント、そしてクリスマスに備える時、へり下って、神と人、地域に「仕える者」として歩んでまいりましょう。
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