12月18日 説教要旨

神を前に誇り無し

2022年12月18日 待降節第4主日(告知)
コリントの信徒への手紙一第1章26-31節
副牧師 𠮷川庸介

 パウロはほとんどの手紙で、自分が使徒として立てられていることについて、自分の能力は一切関係なく、イエス様がこの私を見つけ出してくれたからこそ、この役を担っていると告白しております。このコリントの手紙もやはりその告白がされ、さらに「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々よ」と呼びかけ、キリストに結びついたコリントの人々に対して喜びと感謝を述べます。これはパウロにとっての信念、感謝、そして信仰を告白していることに違いないでしょう。
 ところが読み進めていくうちに、この手紙は喜びと感謝だけではなく、警告が書かれていることに気がつきます。その警告の主な理由は、コリントの人たちが、自分達の権威というものを振りかざし、教会の中で派閥を生み出したことが原因のようです。
こう言った言葉を受けると、すぐさま仲違いをすることはいけないことであるとか、権力を振りかざそうとすることは誤りである、と言いたくなります。それは確かに正しいことではあります。ですが、その正しさにだけ目を向け、教会としてもっと大切な、根底にあるべきことを見落としてはいないでしょうか。
 私たちは何か問題が起これば、あの人は困った人であるとか、あの人がいなくなれば解決するのに、と言ってしまうことがあります。それは教会においても同じです。しかし、教会という場所について言えば、裕福な人、貧しい人、若い人、年老いた人、色々な人が集まってできている場所であります。そしてその中心にあるのは神様であり、主イエスその方であるわけです。そこは人の価値観ではなく神の価値観によって動く場所でなければならないことを、私たちはもっと胸にしなければならないはずです。
 さて、本日の聖書箇所には「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」という言葉があります。自分を振り返ってみて思うことは、どこか過去の栄光であったり、自分の実績をいつまでも誇るところがある、ということです。先日教区教育部の研修で教会学校をどうやって復興させるかをテーマとして、研修が開かれました。講師である広島福音ルーテル教会の立野牧師は、教会の中で昔はこんなことができた、といった過去の実績を口に出しがちである、と言われました。それを聞き、教会の中でも過去の栄光とか過去の実績というものに縛られているのだ、自分もかつてやったことを誇ってはいないだろうかと身につまされるような気分になったわけです。
 コリントのキリスト者の中で、過去の実績によって自分を誇れる人はほとんどいなかったようです。なぜなら、彼らの多くは元々は奴隷であり、技術も持たず、打ち捨てられるようであった人たちであったからです彼らはキリストと出会い救われた時、この世的に誇りとなる地位とか実績によって神に選ばれたわけではない、ということを心から実感していたことでしょう。しかし気がつけば、その喜びの中にありながら、信仰と教会生活の中に自分の評価を誇ろうとし、時にその評価に基づいて、他人を断罪する考え方へと変わっていったのです。それをパウロは批判するのです。
 本来、私たちが誇るべきものは、私たちそのものを見てくださる方がいて、その方が自分を選んでくださったという、ただその一点であります。そして今、その証としてこの世に送ってくださり、打ち捨てられた人々にこそ寄り添われた神の独り子、イエスの降誕を祝うクリスマスを前にしております。独り子を迎える私たちは、今一度その一点を振り返り、来るべき日に向けて過ごしてまいりましょう。

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