1月1日 説教要旨

満たされた人生

2023年1月1日 降誕節第2主日•元旦礼拝
(神殿での奉仕)
ルカによる福音書第2章21-40節
牧師 木谷 誠

 明けましておめでとうございます。旧年中にお交わりありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。一月一日、もうクリスマスは終わったように感じます。しかし、教会の暦において、クリスマス期間は12月25日から1月6日の公現日までです。
 本日の聖書には、シメオンという老人が登場します。シメオンは信仰が厚い人でいつも神殿に詣でて祈りを捧げていました。神によってその深い信仰が認められ、シメオンはメシアすなわち救い主を見るまでは死ぬことがないと言われていました。シメオンは救い主を待ち続けました。そして遂に神はシメオンの願いを叶えました。ついにシメオンは神殿で幼子イエスと出会ったのです。神のお導きによる出来事でした。
 29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 この聖書を読みますと私は人生の真の満足とは何だろうと考えてしまいます。一度しかない人生、虚しく終わらせたくない。一度しかないのだから満ち足りた人生でありたい。では満ち足りた人生とは何なのでしょうか。
 私たちは何で自分の人生を自分の心を満たしているでしょうか?それは日頃私たちは何を中心にして生きているかという問いへとつながります。特に何の考えもなくただ何となくという人もいるでしょう。野望、欲望を心に満たしている人もいることでしょう。中には憎しみ、復讐心で心を満たしている人もいるかもしれません。何で自分の人生を満たすか、何を人生の中心に置くかは大切な問題です。私たちの一度きりの人生、喜びに満たされた人生でありたいものです。
 本日与えられた聖書を読むたびに私が思い出す音楽があります。「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽ノート」という曲集です。その中に「Ich habe genug(私は満ち足りています)」という小さな宝石のような美しい曲があります。歌詞を一部ご紹介しましょう。
 私は満ち足りています。
 私の慰めはただ一つ、
 イエスが私のもの、そして私はイエスのものになりたいのです。
 この音楽は本日の聖書に登場するシメオンに触れています。私たちにとって何が満ち足りた人生なのか?私たちの人生を本当の意味で満ち足りた人生にするのはなんでしょうか?お金?権力?能力?地位?復讐?色々な考え方があると思います。聖書は、神との愛の交わり、そしてそれに基づく人との愛の交わりこそが人生を本当の意味で満ち足りた人生にすると教えているのです。
 先に申し上げましたが、今はまだクリスマスです。イエス・キリストの誕生をお祝いする喜びの祭はまだ続いています。イエス・キリストがせっかく来てくださったのに、心の扉を閉じてしまって、イエス・キリストを「待ちぼうけ」にしてはいないでしょうか。
 心を開いてイエス・キリストを私たちのうちにお迎えしようではありませんか。そしてイエス・キリストとの愛の交わりをはじめようではありませんか。そこから本当の満ち足りた人生が始まります。その時、私たちは真のクリスマスをお祝いできるのです。
 でも、「イエス・キリストを私たちの心の部屋にお迎えしましょう。」では抽象的ですね。具体的に言いましょう。それはイエス・キリストの心を伝える聖書の言葉に聞くことです。
 手がかりがあります。ルカによる福音書2章19節「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」、51節「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」
 この「思い巡らす」、「心に納める」こと、すなわち聖書の言葉、聖書に記されている出来事を心に留めて思い巡らし、そこに神の声を聞こうとする姿勢です。また、自分の身の回りの出来事についても神の御心を求めつつ思い巡らす姿勢です。マリアは私たちの信仰の最高の模範です。このマリアの姿勢に倣う時、私たちはイエスを自分の心の中に迎え入れることとなります。すると聖霊という目に見えない力が私たちのうちに働き、イエス・キリストとの生き生きとした愛の交わりを実現します。そこから満ち足りた人生へと繋がっていくのです。そのようにしてこの新しい年も、満ち足りた歩みを成してまいりましょう。

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