天が開ける!
2023年1月8日 降誕節第3主日
(イエスの洗礼)
ルカによる福音書第3章15-22節
牧師 木谷 誠
本日はイエスの洗礼の物語です。イエスに洗礼を授けた「洗礼者ヨハネ」が登場します。
「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」この謙虚さはどこから来るのでしょうか?
ヨハネは深い祈りと御言葉に聴き従う生活の中で、神との愛の交わりを経験していたのだと思います。その中でヨハネは自分の罪深さと弱さに気付かされました。さらにヨハネはそんな自分を受け入れ、導いてくださる神の愛をいただいたのでしょう。この体験が、ヨハネの謙遜の原因です。この神の愛をいただくことができたから、彼はへり下ることができました。そして自分の後に来る人を指し示す生き方、自分を捨てて、救い主を差し示す「脇役に徹した」生き方ができたのです。
そしてヨハネは後から来る人の役割をさし示します。それは「聖霊と火で洗礼を授ける」方の到来です。ここにヨハネとイエスの洗礼の違いが示されています。ヨハネの洗礼の意味は「清め」です。彼は水で洗礼を授けます。ヨハネは人々の悔い改めを受け止め、神が罪を洗い流して新しくしてくださることを伝えます。水による変化は元に戻ります。汚れた体を水で洗うときれいになります。すぐまた汚れます。水による変化は「可逆的変化」です。人間は悔い改めてもまた罪を犯します。人間は罪を繰り返す愚かで弱い存在です。だから私たちは何度でも繰り返し悔い改めるのです。
これに対して、イエスの洗礼は聖霊と火による洗礼です。火による変化は元は戻りません。木を焼いたら燃えて灰になり、元には戻りません。イエスがもたらす洗礼は「新生」の洗礼であるということができます。目に見えない聖霊の働きによって全く新しいものへと変えられる。それがイエスのもたらす洗礼です。
17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。
有名な脱穀の例えです。イエスがもたらす洗礼を受けた人はその人生の中で余計なものが取り除かれて、神様が与えてくださった良いものだけが残ると言っているのです。
もう一つ注目すべきことは、誰も切り捨てていないということです。どの麦も捨てられません。捨てられるのは籾殻だけです。誰かが切り捨てられるのではなく、みんな受け入れられています。切り捨てられるのはそれぞれの余計な部分だけなのです。
イエスはそんなヨハネから洗礼を受けました。どうしてでしょうか?それがイエスのへり下りです。イエスが自らの生き方において示された神の心は、へり下りです。そして、罪と弱さにまみれて、繰り返し罪を犯す人間に寄り添う連帯、愛です。
罪と弱さににまみれた人間に寄り添う歩みはただではすみません。当然自分も汚れます。傷つきます。自分も罪人の一人となるのです。それら全てを承知の上で、イエスは洗礼を受けました。ここにイエスに示された覚悟があります。聖書が、キリスト教が伝える神は、ただ天から人を見下ろして、自分は傷付かずに上から恩恵を与える神ではありません。イエスは、綺麗事では済まない汚れた人間の現実に降りてこられて、そこで共に汚れ、傷つきながら寄り添い、その罪の赦しのために命をも捧げました。その覚悟がイエスの洗礼という出来事の中で示されています。
このような覚悟を体で示したイエスに対して、天が開け、聖霊が降ります。この聖霊が、イエスに与えられた役割を担う力なのです。
私たちの歩む一年、様々な患難が待ち受けています。対する私たちは弱く、罪深、それを担い切る力はありません。それでも覚悟を持って祈りつつ従う時、天が開けるのです。そして聖霊を神は与えてくださいます。
私たちはイエスのような覚悟はとても持てません。イエスと比べたら、私たちの覚悟は、もろく、中途半端なものに過ぎません。それでよいのです。私が、私たちなりに覚悟して祈りつつ従う時、天は開けると今日の聖書は伝えているのです。
イエスに対して天を開いてくださった神は、私たちにも天を開いてくださいます。そして聖霊を与えてくださいます。私たちなりに覚悟を持って祈りつつ歩んでまいりましょう。天が開けるとの約束を信じて歩んでまいりましょう。
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