お言葉ですから
2023年1月15日降誕節第4主日
(最初の弟子たち)
ルカによる福音書 第5章1-11節
副牧師 𠮷川庸介
「キリスト教は啓示の宗教」という言葉があります。この意味は、「キリスト教は神が人には到底できないことを起こすことを見て圧倒され、それを証していく宗教である」ということである。その証をもって世にイエスを伝える役目を私たち一人ひとりが持っているということである。
ただ、イエスの一番弟子シモン・ペトロが最初からその役目を全うした、また疑うことが一度としてなかったというわけではない。例えば4章38節を読むと、ペトロの義理の母親が熱で苦しんでいて、イエスのところに周りの人が救ってほしいと頼みに来ているが、頼みに来た人の中にペトロの名前はない。つまり、イエスの力を信じておらず、疑っていたと考える方が自然ではないかと思う。それは、湖畔に立っているイエスの話を聞こうと多くの人が押し寄せる中、ペトロは仲間の漁師たちとせっせと網を洗っていることからも分かる。イエスはあえて、そんなペトロに舟を湖に出すように依頼し、湖の上で小さな舟に乗って、座って教えを説いていた。だがその企みを気にもしないで、ペトロはやはり、船の上でせっせと網を洗っていただろう。この風景を思い浮かべると少し笑ってしまいはしないだろうか。たった7,8メートル程度の小舟なので、イエスの熱量が伝わってきそうだのに、それを気にもせずにせっせと網を洗っているのだ。網は漁師としての必需品であるし、汚くなると魚が獲れなくなるから当たり前のことをしているのだが、その時にしか聞くことができないかもしれないイエスの話に何ら関心を払っていないのである。
話を終えたイエスに「沖に出て漁をしなさい」と言われると、ペトロは「先生、夜通し漁をしても何も獲れなかったのですよ。ですがお言葉ですからやってみましょう」と返している。「先生」とは権威ある人、という意味合いで使われる「エピスタテース」という言葉が使われている。「ラビ」という祭司とか律法学者に対して使われるそれとは違う。役職に対してではなく、その人そのものを「先生」というときに使うのだが、この時の「先生」にはさぞかし皮肉がこもっているだろう。素人が何を言っているのだろうか、という態度が文字からも滲み出ているようである。しかし、結果は網が破れ船が沈みそうになるほどに魚が獲れるというものであった。それを見て、ようやくペトロは目の前にいる方が神としての力を持つことを悟り、イエスの足もとに平伏するほどにまで尊敬と畏怖の念を抱くようになったのである。
だが、ペトロの信仰は、一度砕かれた。なぜなら、足もとにひれ伏すほどの方は、最後無惨にも死んでしまうからだ。ペトロは一度はこの方には人智を超えたお力を持たれているのだと心底思った相手が、父よと叫んで十字架上で死んでいく姿を見たのだ。イエスが死んでいく姿を見たとき、私が信じていたものは一体なんだったのだろうかと呆然としたことだろう。だが、自分の目の前に確かに死んだはずのイエスが現れ、共に食事をし、祝福を与える奇跡を目の当たりにし、また信じることを決めた。ペトロはこの事実により、イエスの教えを、神の教えと伝えられたことを、自分がどれほどまでに疑おうと、結局は主が考えられることが、教えられたことが捻じ曲がるようなことはなかったと悟ったことだろう。これこそが、どこの誰であっても、変えられない真実ではないか。その真実を知ったからこそ、ペトロの前にはあらゆる奇跡が起こり、その奇跡を証し、死を目の前にしてもイエスの証を止めなかったのではないか。
復活したイエスに出会う前のペトロのように、イエスの言葉や神の言葉と教えられていることを疑い、皮肉めいた言葉をかけるようなことがあっては、せっかく神が私たちのためにしてくださろうとするあらゆる奇跡をいいかげんなものと思ってしまう。疑いも迷いもなく、お言葉ですからそのように、と言い、そして神に従う私たちであるよう、祈り求めたい。
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