主の恵みの年
2023年1月22日降誕節第5主日
(宣教の開始)
ルカによる福音書 第4章16-30節
牧師 木谷 誠
イエスの活動は大変な評判になりました。そのイエスが故郷ナザレの村の礼拝に参加したのです。会堂の管理者は、イエスに聖書の朗読と解き明かしを求めました。求めに応じてイエスは、イザヤ書61章1-2節を朗読しました。
主の霊とは、神様からいただく目に見えない力です。イエスは個人的な能力ではなく、神から力をいただいて使命を果たしていくのです。その「主の霊」をいただいて、イエスは貧しい人に「福音(良い知らせ)」伝えます。
貧しい人とは誰のことでしょうか。イエスは貧しい人として、「捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人」を挙げています。現実の中で、さまざまな困難を抱えている人たちのことをイエスは「貧しい人」と呼んでいます。そのような人たちの厳しい現実に希望がもたらされる良い知らせをイエスは伝えるために来られたのです。
良い知らせとはどのようなものなのでしょうか?それはイエスによって、神との愛の交わりをいただくことができるということです。神様との愛の交わりをいただいて歩むとき、困難な現実に希望、解放、喜びがもたらされます。このイエスの知らせを信じ、従うことによって、私たちは神の子とされ、神を「父」と呼ぶことができます。
この神との愛の交わりは、私たちの心の中に愛されている喜び、罪や弱さをゆるされ受け入れられている平安をもたらします。そして神は私たちに聖霊(神からの目に見えない力)をくださいます。その聖霊によって、私たちは神の愛に満たされ、さまざまな厳しい現実に立ち向かうことができます。
イエスとの出会いの中で、私たちが神との愛の交わりをいただくとき、厳しい現実が違って見えるようになります。苦しみを抱えている人がその苦しみから解放されて、希望を見出すことができるようになります。
イエスは、そのようにして「貧しい者」、「苦しむ者」に寄り添い、共に苦しみ、共に悩み、共に希望を見出すために来られました。「主の恵みの年」はイエスの登場によって始まります。それは今なのです。
イエスの言葉を聞いて、賛辞と共に「この人はヨセフの子ではないか。」という声が聞こえました。これを聞いてイエスは言われました。
「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
「ヨセフの子ではないか」という人々に対して、イエスは「過去の出来事にとらわれて、今、きちんと神の言葉に向き合えないあなたたちはかつてのイスラエルの不信仰と同じだ。異邦人の方がよっぽど良いではないか。」と言ってしまったのです。イエスは、人々の不信仰を指摘し、悔い改めて、神との愛の交わりに招こうとしました。しかし、ナザレの人々はイエスの真意を受け止めきれませんでした。そして怒り、イエスを殺害しようしたのです。
しかし、イエスは堂々と人々の真ん中を通って去っていかれました。イエスの毅然とした態度が人々を圧倒したのでしょう。もう一つは、今は、イエスが生きて働く時だからです。「まだその時ではない」ということです。
このイエスへの激しい反発の出来事は、イエスの生涯の物語に奥行きを与えています。イエスの宣教には、挫折もあったのです。生まれ故郷でイエスは拒まれたのです。
人々の不信仰は深刻で、預言者が神の言葉を伝えたくらいでは解決できないのです。それは聖書の中で実証済みです。イエスの十字架はこの段階ですでに見えていたのです。
イエスを拒否したイスラエルの不信仰は、私たちの問題でもあります。
ナザレの人々のように信じないで証拠を要求する頑なな姿勢、見ても信じない不信仰、自分の知っていることが全てであるかのように思い上がり、神の言葉ときちんと向き合えていないとしたら、私たちはナザレの人々のような過ちを犯してしまうことになります。
私たちは低い心でイエスの言葉に、聖書の言葉に向き合い、自分の言葉、行い、想いを吟味することが大切です。そして悔い改め、イエスに従う歩みを始めていくこと、それが私たちがこの一年を主の恵みの年として歩む時に大切な身支度となります。それによって私たちは神との愛の交わりをいただきます。そしてイエスと同じく「主の霊」をいただいて、イエスに従い、この今治の町に「良い知らせ」を伝えることができるのです。
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