2023年2月26日受難節第1主日(荒れ野の誘惑)
ルカによる福音書 第4章1-13節
牧師 木谷 誠
先週の水曜日は、教会の暦では「灰の水曜日」でした。この日から受難節が始まります。受難節はイースターへの準備期間です。私たちはイースターに向けてイエス・キリストの十字架の苦難と死の出来事を振り返り、その意味を確かめ、自らの罪を悔い改めて備えるのです。
受難節の最初の日曜日、私たちに与えられた聖書は「荒野の誘惑」です。イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。そして聖霊(神の目に見えない働き)がイエスに降りました。この聖霊に導かれて、イエスは荒野に向かったのです。洗礼を受けたイエスを聖霊は荒れ野に導き、苦難と誘惑、試みに遭わせました。そしてそこでイエスはその後、救い主として活動していく信仰を養い、決意を固めたのでした。
悪魔がイエスに仕掛けた最初の誘惑は、「石をパンに変えてみよ」というものでした。
この誘惑を通して、悪魔は真に自分を養う方である神を見失わせようとしました。悪魔はこの誘惑を通して、イエスが神に信頼することをやめて、自分の力に頼るように仕向けようとしたのです。
しかし、イエスはこの誘惑を退けました。人は「パンだけ」で生きるのではありません。イエスはパンを否定してはいません。パンも大切です。しかしそれ以上にパンを与えてくださる方を忘れてはいけません。独善的になって自分の力に頼って神への信頼を見失ってしまう過ちをイエスは退けたのです。
悪魔がイエスに仕掛けた二つ目の誘惑は、富と豊かさの誘惑でした。富と豊かさはとても魅力的です。しかし、イエスはそれも退けました。富と豊かさを手に入れても、自分の魂を悪魔に売り渡し、悪魔を礼拝するならば、大きな不幸を引き起こしてしまいます。しかし、イエスはそうではありませんでした。イエスはどのような時にあっても、貧しい時も豊かな時も、神を礼拝することの大切さを見失いませんでした。
悪魔が仕掛けた三つ目の誘惑は「高いところから飛び降りてみよ。神があなたを守るだろう。」というものでした。この誘惑は実に巧妙です。神を信頼しているならば、飛び降りたら良いではないか。わたしなどはそう思ってしまいます。しかし、イエスはこの誘惑も退けました。相手を試みるということは、相手を信頼していない証拠なのです。本当に相手を信頼しているならば、相手を試みる必要はないのです。イエスはここでも信仰を見失いませんでした。
このようにしてイエスは悪魔の誘惑を退けました。イエスを誘惑して、神から離れさせることに失敗した悪魔はイエスを攻略(?)することを諦め、イエスから離れます。
このようにして誘惑を退けたイエスはいよいよ神の国の宣教を始めます。
イエスは自分を支え、養う方は神であることを見失いませんでした。イエスは常に神の言葉を支えとしました。そしてイエスはこの世の富と豊かさに左右されず、ただただ神のみを信頼して歩み始めました。イエスの行先には十字架の苦難と死が見えていたのです。
私たちがイエス・キリストを主と信じ、イエスに従う時、聖霊は私たちを試練と苦難へと導きます。しかし、聖霊はそこで私たちを試みに遭わせるだけでなく、それを乗り越える力をも授けてくださいます。受難節の始まりにあたり、このイエスの信仰に倣い、イエスと共に私たちもそれぞれの課題を担って歩んでまいりたいと思います。
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