キリスト教はユダヤ教から始まったので、教え自体は同じようなものが多い。その教えの中で、引き継がれた大きなものは、神様がこの世界を作った。不完全なものはなく神はよしとされた、といったものだと思う。この言葉が、神様の絶対性といったものを常に考えさせてきた。しかし、その考えに疑問を抱き、どうしてこの世界はこんなにも不完全なのか、と言う問いが出てきたのだと思う。実際、この世の中には飢える人もいれば、戦争もあり、理不尽なことは言い出せばキリがないほどにあると思う。その疑問に答える形でグノーシス主義が生まれた。彼らはこの世界は不完全なものであって、聖書が教える神は劣った神である。私たち人間の肉(体)は汚れており、霊(知識、魂)によって人は救われるという考えを持っていた。それは禁欲主義、あるいは快楽主義という両極端な思想を生み出すに至った。
私自身、こういった考え方に対し、全く理解ができない、とは思わない。例えば禁欲主義について言えば、中世の修道院が禁欲的な生活の中で神に向き合おうとしていた。あるいは快楽主義も、コヘレトがあらゆる快楽と権力に耽ったが、全て虚しいものであったと語るよう、快楽に耽り、放蕩の限りを尽くしたことで一つの結論には達するかもしれない。私自身は、それはそれで大切であるとは思う。だが、やはりそれだけでは不完全だとも思う。その結論は人間にとっての結論でしかない。その結論が自分にとっての全てとなって、まるでこの世界のすべてのようになったらそれは大問題である。
さまざまなことを考えるとき、大切になるのは神様や霊が教えてくれることは何か、ということをよく考えることだと思う。色々な結論はあると思うが、最後にはイエス・キリストという方は確かに神の子であり、私たちのために死んでくださった。そしてそれゆえに、あらゆる出来事は彼を通して喜びとして私たちの目の前にあるということをしっかり証することが大切だと思う。もしこれを抜きに感謝であるとか、恵みを与えられているとか、この世に命あることを喜ぶと言っても、それは実際のところ神様というハンコが押されていない中途半端でどこか無責任な小切手だとか契約書のようなものだと思う。いざとなればハンコがないのだから効果がないと言って逃げ出すことだってできてしまう
だから私たちは、私たち自身の言葉にも耳を傾けなくてはならない。別にイエス様がいてくださったから、わざわざ神様なのにこの地上に降りてきてくださっているから今の私があるんだと思えないのなら、それは神様の霊が中にあって自分たちが生かされているということではないのだと思う。むしろ、別の力、それこそこの世の付き合いだとかなんか別のものに突き動かされているのだと思う。それをイエス様の力と勘違いしてはならない。信仰問答だとか、はてキリスト教とは、ということが大切なのではない。うちなるその声に、自分が発するその言葉の中にイエス様がいるのかを聞くことが一番大切だと思う。
もしもこれを否定しようとしたり、この世の考えでは、などといった口当たりの良い言葉を並べようとし、イエス様の苦しみや存在、その方を送られた神様を否定する言葉に耳を傾けてはならないはずだ。その言葉はこの地上にいつも溢れ、わたしたちを惑わせようとする。だが主がどのようにしてこの地上歩まれたか、それを忘れることなく、教えられる言葉にじっと耳を傾け、この地上の歩みを力強く歩みたいと思う。
この記事へのコメント