2023年4月16日復活節第2主日「心が燃える」

ルカによる福音書第24章13-35節
牧師 木谷 誠
弟子たちも女性たちもイエスの復活を信じられませんでした。しかし、その後、弟子たちも女性たちもイエスの復活を信じて伝えるようになりました。なぜなのでしょうか?
その理由は、単純に言えば、「実際に復活のイエスと会ったから」でしょう。
それを伝えるエピソードの一つが本日の聖書です。弟子たちのイエス理解は「行いにも言葉にも力のある預言者」でした。。
しかし、ナザレのイエスは単なる預言者以上の存在でした。イエスは、私たちの罪を担い、十字架の贖いによって罪のゆるしを達成し、死を超えた新しい命の姿で私たちと出会い、導いてくださる救い主だったのです。この復活は、神秘であり、人間の知恵と経験では辿り着くことができない真理でした。
その復活の真理を伝えるためにイエスはエマオへの道の途中で弟子たちに出会いました。そして聖書によって福音の真理を、復活のメッセージを伝えたのでした。復活のメッセージ、福音の真理は、神から示していただくことによってわかることなのです。
32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。復活のイエスと語り合い、聖書の言葉に聴いている時、彼らの心は燃えていました。
「心が燃える」という言い回しは、「燃える火のように激しい心の動き。」です。
この「心が燃える」の反対語は?今日の聖書では、17節に「二人は暗い顔をして立ち止まった。」と書いてあります。彼らはナザレのイエスこそイスラエルを救ってくださる方だとして、望みをかけていました。しかし、ナザレのイエスは殺されてしまいました。希望は消え、心は真っ暗でした。
その彼らの心が燃えました。彼らの心は、イエスと出会い、聖書の言葉によって、燃えました。彼らは、イエスが一緒にいて、生き生きと関わってくださることが実感でき、心の中で火が燃え始めたのです。
弟子たちの心が燃えたのは、イエス・キリストが弟子たちに出会ってくださったからです。それは神から与えられた恵みです。では私たちにできることは何でしょうか?そうではありません。その鍵は29節にあります。
29 二人が、「一緒にお泊まりください。略」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
弟子たちは復活のイエスを無理に引き止めました。彼らはイエスから「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と言われます。それが現実です。私たちも同じです。しかし、それでも「一緒にお泊りください」と願うこと、それが私たちが復活のイエスとの生き生きとした交わりをいただく鍵です。それが「心が燃える」ための身支度です。神様の偉大が救いのご計画の前に弟子たちも、私たちも「ものわかりが悪く心の鈍い」者でしかありません。
しかし、それでも私たちは、一生懸命にイエスに向かって、弟子たちのように「一緒にお泊りください」、「そばにいてください」と願うこと、お祈りすることはできます。愚かなまま、罪深いままで良いのです。「私の心に来てください。」、「私と一緒にいてください」とお願いする時、イエスはその願いに応えてくださるのです。そこから「心が燃える」生活が始まります。
みなさん、心は燃えていますか?ヨエル書にはこう書いてあります。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。」
これは聖霊を与える約束です。年齢は関係ありません。ルカによる福音書第11章11節以下にはこう書いてあります。
あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。-略-まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
聖霊は「火」に例えられます。私たちが一生懸命祈り願う時、神は私たちの願いを聞いて、聖霊を注いでくださり、私たちの心を燃え上がらせてくださるのです。そのためにも私たちは今日の弟子たちのように「一緒にお泊りください」と神様に、イエスにお願いしましょう。心を燃やしていただきましょう。

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