あなたがたに平安があるように
2023年4月23日復活節第3主日(復活顕現)
ルカによる福音書第24章36-43節
牧師 木谷 誠
イエスが復活されたという知らせが伝わってきました。弟子たちはもはや信じられないとばかりも言っていられなくなりました。いつか復活のイエスがおいでになる。彼らの心は不安と戸惑いがあったことと思われます。
そして遂にイエス・キリストが弟子たちの真ん中に立たれたのです。彼らは恐れ、おののきました。弟子たちは復活のイエスを亡霊だと思ったのです。なぜ彼らはすぐに喜ばなかったのでしょうか。なぜ彼らは恐れおののき、イエスを亡霊だと思ったのでしょうか?
その理由、一つは弟子たちがイエスを裏切ったからです。弟子たちはイエスを見捨てて、逃げてしまいました。彼らの心はイエスを裏切った後ろめたさ、罪の意識でいっぱいでした。復活のイエスと出会っても、弟子たちは合わせる顔がありません。イエスから裏切りを責められたら、一言も返せません。
もう一つは「復活」と言う出来事は以前にはなかったということです。旧約聖書には死者の復活の言及はありません。だから弟子たちは、復活のイエスと出会って、亡霊、「化けて出た」としか思えなかったのでしょう。
しかし、復活のイエスの最初の一言は、弟子たちにとって予想外でした。イエスは「あなた方に平安があるように」と言われたのです。これは祝福の挨拶です。自分を裏切った弟子たち、自分を見捨てた者に対して、イエスは恨み言でも、復讐でもなく、祝福を与えました。イエスは弟子たちの罪と弱さをゆるし、受け入れ、以前と同じ、いやそれ以上の温かい愛の交わりを持ってくださるのです。
このイエスとの出会いは、亡霊と出会うような、恐ろしげな、生命感のないものではありませんでした。それは、生き生きとした喜び溢れる愛の交わりでした。以前のイエスは、親しい食事を愛されました。復活のイエスも、以前ガリラヤでしてくださったように喜ばしい食卓を共にしてくださったのです。
この聖書を読みながら、私は一つの出来事を思い出しました。それは学生の頃のことです。私は京都の祇園のホテルのレストランで朝食のウエイターのアルバイトをしていました。京都の南座の近くで、歌舞伎役者さんも泊まっていました。役者さんたちは公演期間中、ずっとお泊まりになります。
ある歌舞伎役者さんがおられました。相当有名な方だったようです。素敵な紳士で、毎朝、必ず卵料理はポーチドエッグを召し上がります。その役者さんはいつも笑顔でいらして、「いつもの」とおっしゃるのです。
ある日、事件が起こりました。ポーチドエッグの中身が腐っていたのです。その歌舞伎役者さんは少し驚いて、で穏やかに、「腐っているみたいなので代えてほしい」と言われました。私はとても驚きました。黄身のところが黒ずんでいたことを強烈に覚えています。すぐ厨房に行って、コックさんに報告し、大至急代わりのポーチドエッグを作ってお出しし、お代金はいただきませんでした。
そして翌朝、その方が朝食にいらっしゃいました。そして穏やかなお顔で「いつものをお願いします」と言われたのです。私はとても驚きました。かっこいい、カッコ良すぎます。レストランが言い訳のできないミスをしたのに、その方はゆるしてくださったのでした。貧乏アルバイト学生の私にはこの方がイエス様のように一瞬見えたのでした。ゆるすということは、とてもたいへんですが、すごくかっこいいこと、素晴らしいことだと思いました。この聖書を読むたびに私はこの出来事を思い出すのです。そしてイエスの赦しはもっともっと素晴らしいものだと思います。
私たちも弟子たちのような弱さを持っています。過ちや失敗をしてしまいます。神様をイエス様を裏切ってしまうこともあるでしょう。そのような私たちに対しても、復活のイエスは「あなたがたに平安があるように」と親しい愛のこもった挨拶をくださいます。イエスは私たちの罪深さ、弱さをゆるし、受け入れ、生き生きとした愛の交わりを持ってくださるのです。イエスの愛は、私たちの罪と弱さを超えています。
このような愛の溢れる生き生きとした復活のイエス・キリストとの交わりが私たちにも与えられています。この復活のイエスの愛を喜び、この愛に応えて歩んでまいりましょう。そして私たちもゆるせる者となれるように祈りましょう
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