永遠の命のパン
2023年4月30日復活節第4主日
ヨハネによる福音書第6章34-40節
牧師 木谷 誠
本日の聖書でイエス様は、ご自分を「命のパン」と言われました。そして「決して飢えることがなく」、「決して渇くことのない」食べ物と言われます。不思議です。
私たち人間はどんなにお腹いっぱい食べても時間が経つと必ずお腹は減ります。当たり前のことです。自然なことです。その自然に反することをイエス様は言っておられます。これはどういう意味でしょうか?
「パン」とは食べ物の総称です。パンをいただくことによって、私たちは生きることができます。それは命を維持するため、命を養うために欠くことのできないものです。
「命のパン」とはイエス様が私たちの命を養う方であるということを意味しています。イエス様と向き合って、イエス様の言葉に聞き、その言葉を信じて受け入れる者は、自分の命を豊かに養われるのです。
信仰は「食べる」行為と似ています。「食べる」という行為は当たり前のようですが、とても重要な手続きが無意識になされています。それはその食べ物が安全であると信頼するという手続きです。有害だと思ったら食べません。食べ物が安全であり、自分の命を養ってくれると信じているから食べる、すなわち自分の体(命)の中に受け入れるのです。
信仰も同じです。イエス様の言葉を信じて、自分の心の中に(自分の命の中に)受け入れる時、私たちは自分の命を養うことができます。このイエス様を信じて受け入れることによって、私たちがいただくものは、神様との、イエス様との愛の交わりです。
そしてその愛の交わりは決して尽きることがありません。なぜなら神様の愛は無限だからです。この愛の交わりは死によってすら奪われません。死を超えて続く永遠の愛の交わりです。そのような永遠の命、永遠の愛の交わりをもたらす「命のパン」としてイエス様はこの世に来てくださいました。そして信じる者にこの「永遠の命」すなわち永遠の愛の交わりを与えてくださるのです。そしてこの永遠の命、永遠の愛の交わりは復活の新しい命へとつながるのです。
この復活は、「失われた交わりの回復」ということができます。この聖書の文脈でも、復活の出来事は、「失われた交わりの回復」です。弟子たちはイエス様を裏切り、逃げてしまいました。そしてイエス様は十字架にかかって死んでしまいました。弟子たちは、突然、イエス様との交わりを失ったのです。
弟子たちは、イエス様にお詫びすることも、イエス様からゆるしていただくこともできないまま、イエス様と別れてしまいました。それはとても辛い、とても残念な別れでした。そのような形で交わりを失うとその人は一生後悔することになります。
しかし、イエス様は復活されました。そして弟子たちと会ってくださり、ゆるしてくださいました。弟子たちの裏切りによって失われた交わりをイエス様は復活によって回復してくださったのです。
この説教を準備しながら、私の心には、愛する人を突然亡くされた人たちが思い浮かびました。死を比べることはできません。しかし、突然の死の場合、家族は、愛する人と十分なお別れができません。
最近のコロナ禍の中でも何度もお葬式がありました。その度にご遺族から「会えない。」、「会えなかった」というお声を何度も聞きました。コロナ禍にあって、家族は愛する人に十分なお世話も、お別れもできないケースがほとんどでした。十分なお別れができないまま迎える愛する者の死、失われた交わりは本当に痛ましい出来事でした。
それを思います時、私はイエス様が永遠の命のパンとして、私たちを養ってくださり、私たちに死を超えた永遠の命、神との愛の交わりをもたらしてくださることは、とても大きな慰めであると思うようになりました。
愛する人との突然の別れ、失われた交わり、大きな悔いがあることと思います。しかし、これで終わりではありません。イエス様が「終わりの日に復活させる」はっきりと言われています。イエス様が復活の永遠の命、失われた交わりの復活、愛する者との再会を約束されているのです。
この永遠の命をいただいた者も一度は死にます。しかし、終わりの日に復活します。そして新しい命をいただいて永遠に生きることができます。かつて別れた愛する人ともそこで再び会い、永遠に共にいることができます。失われた出会いが回復されるのです。
この「命のパン」であるイエス・キリストをいただいて(信じて受け入れて)死を超えた永遠の命、永遠の愛の交わりの希望を持って歩んでまいりましょう。
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