言葉を信じる-ふさわしくない者がふさわしい
2023年5月14日復活節第6主日(信仰に報いる主)
ルカによる福音書第7章1-10節
牧師 木谷 誠
ルカによる福音書第7章1-10節
牧師 木谷 誠
本日の聖書に百人隊長が登場します。百人隊長は、ローマ帝国の軍人です。イエスは百人隊長の信仰を高く評価しました。その信仰とはどのような信仰であったのでしょうか。
百人隊長はイエスの癒しを聞き、病気のために死にかかっている部下を助けてくださいとイエスに願ったのでした。
イエスはこの願いを聞き、さっそく出かけました。百人隊長は、イエスが近くまで来た時に使いを通して、言わせました。
6「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」
百人隊長は、自分のことをイエスを迎え入れるには「ふさわしくない」と言っています。ここでとても興味深いことがあります。4節でユダヤ人の長老たちは百人隊長のことを「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。」と言っています。この食い違いは何を意味しているのでしょうか?
ここに百人隊長の信仰を理解する鍵があります。百人隊長は、自分の至らなさ、神の前に罪深い者であることを自覚していました。それゆえに百人隊長は自分をイエスを迎え入れるには「ふさわしくない」者であると告白しているのです。この「ふさわしくない」という自覚は神とイエスの前における深いへり下りを意味しています。そしてこのような「自分はふさわしくない。」という自覚、へり下りこそ、実は神を、イエスを受け入れるもっとも「ふさわしい」態度なのです。
ルカによる福音書第18章でイエスは一つの譬え話をしています。
9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
また詩編51編では
19打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
神様の前で、自分は「ふさわしくない」という自覚こそ、もっとも「ふさわしい」態度なのです。水が低いところに流れるように、神様の愛と恵みは低い心に注がれます。
「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」
ここに百人隊長の信仰の学ぶべきもう一つのポイントが示されています。それは「見ないで信じる信仰」です。イエスは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と高く評価されました。
イスラエルの歴史を見ますと、アブラハムやモーセなどの例外はありますが、神の約束を信じきれず、信仰から離れてしまった例が多くあります。イスラエルの歴史には「見ないで信じる」どころか、「見ても信じない」不信仰な出来事がたくさんありました。それゆえにイエスはこの百人隊長の信仰を高く評価されたのでした。
福音書の中で、ユダヤ人たちは多くのイエスの奇跡を見ました。しかし、彼らはイエスを信じませんでした。ユダヤ人たちは見ても信じませんでした。
私たちも、「見ないで信じる」のが本当の信仰であるとわかっています。しかし、信じきれない弱さを持っています。私たちも神の大きな恵みをいただいて、信仰の喜びに満たされても、しばらくするとそれを忘れてしまいます。そして私たちも不安になります。「見ても信じない」不信仰、信仰の弱さは、私たちの問題でもあります。私たちは、このような百人隊長の素晴らしい信仰に学び、それに倣う者となれるように、神様の助けを祈り求めたいと思います。
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