ローマの信徒への手紙第1章2-4節
フィリピの信徒への手紙第2章6-11節
牧師 木谷 誠
使徒信条について、本日は「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」をお伝えします。これは「処女降誕」と呼ばれます。マリアが性の交わりなしにイエス・キリストを身ごもった出来事は、聖書の奇跡の中で、最も信じ難い出来事と言えるでしょう。
まず、奇跡をどう解釈するか?いろいろな立場がありますが、私はそのまま信じる立場をとります。なぜか?
実は、私も処女降誕がわかりませんでした。それは置いておいて、イエス・キリストを信じて歩んできました。
ここに大切なことがあります。聖書に書いてあることが全部わかってから洗礼を受けるというと誰も洗礼を受けられなくなります。わからないことがあっても何か一つでも二つでも納得できることがあれば、わからないことは保留しても良いのです。何か一つでも二つでも納得できることとは何でしょう?それは人によって違います。
私も聖書が全部わかって洗礼を受けたのではありません。私にとって聖書に書いてあることはわからないことだらけでした。ではなぜ洗礼を受けたのか?
私はこどもの頃から私は牧師さんが大好きでした。私にとって、イエス様の顔は牧師さんの顔でした。ちなみにその頃の牧師さんはドイツ系の日本人ですごくハンサムな方でした。その牧師さんに憧れ、自分もなりたいと思ったことが一つです。
もう一つは高校生のキャンプの時、自分はイエス・キリストのことが全然わかっていない事を思い知らされました。そしてイエス・キリストと出会いたいと思ったこと、この二つが洗礼を受けた理由でした。とてもいい加減ですよね。
それでも洗礼を受けた後、色々なことがありました。悩んだこと、苦しかったこともたくさんありました。楽しいことも、嬉しいこともたくさんありました。素晴らしい友との出会い、やりがいのある仕事をいただきました。
私のような者が牧師の仕事をいただいて、沢山の人たちに助けていただきました。絶望から救われました。今、こうして皆さんとご一緒に礼拝を守り、様々な課題を担っています。また幼稚園の働きもさせていただいています。数えきれないお恵みをいただいていることを思う時、イエス・キリストが今も生きて共にいてくださることを実感し、喜びと感謝を新たにして過ごしていますと聖書に書いてある奇跡がごく自然に受け入れられるようになったのです。処女降誕の出来事も素直に受け入れられるようになりました。では処女降誕の出来事はどのようなメッセージを伝えているのでしょうか。
実は聖書にはイエス・キリスト以前にも生まれるはずのない子が生まれ、神の救いの御業を担う出来事が書かれています。洗礼者ヨハネは両親が年老いていて、旧約聖書の預言者サムエル、士師サムソン、アブラハムの子イサクも生まれるはずのない子どもでした。
そのように生まれるはずのない子どもが生まれ、神の救いの御業の担い手となっていく出来事が聖書には記されています。いずれもイエス・キリストほど奇跡的ではありませんが、人間的には全く不可能と思えるような状況の中で生まれた子ども達でした。
その出来事を通して、神は無から有を起こされる方であること、そして人間が希望を持てないところに希望をもたらす方であるというメッセージが示されています。
マリアは聖霊によってイエス・キリストを身ごもりました。聖霊は神の目に見えない力です。この聖霊によって無から有が起こされたのです。人間には不可能なことも神を信じて歩む時、不可能が可能になることをこの使徒信条第三項は私たちに伝えているのです。
もう一つ大切なことがあります。それは神が人となられたということです。イエスは神と等しい方でした。神のひとり子、主である方が、神の僕として、神のみ心に従い、私たちの僕として私たちの救いのために命までも捧げてくださいました。この神の謙遜と自己犠牲によって私たちは罪をゆるされ、神の子として神との愛の交わりを生きることができるのです。
神が人となられた恵みに感謝し、私たちも自分たちの考えで安易に結論を急いだり、絶望したりしないで、無から有を起こされる神の働きを信じて、希望を持って、日々の課題に取り組んでいきたいと思います。
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