2023年7月23日 聖霊降臨節第9主日 <苦しみの意味> 愛は理屈に合いません。だから愛なのです。

     
使徒信条を学んでいます。今回は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」についてお伝えします。
さて、私の家には「キリスト」という絵の本がありました。画集です。何気なく見ていて、とても重い気分になりました。とても「痛い」本でした。どのページもどのページも、十字架にかけられた人の絵ばかりだったからです。全然美しくありません。「この人、どうしてこんな痛い目にあっているんだろう?」という疑問を持ちましたし、なぜ親がこんな「痛い」絵ばかりの本を買ったのかも疑問でした。
十字架はよくアクセサリーとしても用いられます。しかし、実際のキリストの十字架の出来事はとても悲惨な出来事です。そしてその十字架を教会はあたかも旗印のようにしています。それにはどういう意味があるのでしょうか、どういうメッセージがあるのでしょうか?
まず「¬ポンテオ・ピラトのもとで」について、ポンテオ・ピラトは実在の人物で、ローマ帝国から派遣されたユダヤの総督です。言わば高級エリート官僚です。この実在の人物の名前が書かれていることによって、イエス・キリストが歴史的に実在したことがわかります。
それから十字架はローマ帝国の死刑の方法でした。とても苦しみが大きい残酷な方法だったと言われています。当時のユダヤはローマ帝国の植民地でしたから、死刑執行などの重要な事柄は、ユダヤ人は行えませんでした。ローマ帝国から派遣された総督ピラトにお願いする他なかったのです。
イエス・キリストが十字架にかかって死んだ。何故なのか?どういう意味があるのか?それはキリスト教会初期の大問題でした。使徒たちは祈りつつ、懸命にその意味を尋ね求めました。その際に彼らが頼ったのは、聖書(今では旧約聖書)でした。そしてその大きな手がかりとなったのが、このイザヤ書53章だったのです。
このイザヤ書53章にはとても不思議な「主の僕」という人物が出てきます。その姿はとても悲惨で惨めでした。見るに耐えないものでした。イザヤ書53章は子供の頃読んだ「キリスト」という画集と同じくとても「痛い」印象です。
彼は自分のせいでこのような苦しい目にあったのではありません。明らかに不当な仕打ちを受けたのでした。理不尽でした。しかし、この主の僕は黙々とただただ苦しみを引き受けて死んでいきました。
その主の僕の苦しみと死の意味は、私たちの罪と病の苦しみを代わりに引き受け、私たちを癒し、私たちを苦しみと死から救うものであったというのです。それが主の僕の役目だったのです。そこには罪人の罪の結果を罪人の身代わりになって引き受け、そこに罪の赦しをもたらす神の心が示されています。
一頃、世の中には「自己責任」という言葉が溢れていました。自分のしたことは自分で責任を取る。まあ、当然のことです。理屈に合っています。しかし、それを人間はそれを徹底して良いのか。それで人間は本当に救われるのか?その結果、今、大きな問題となっているのが、分断、格差、孤立の問題です。
人は、本来、互いに愛し合い、支え合って共に生きるように作られました。「自己責任」はそれを大きく損ねてしまっています。
人間は繰り返し、罪を犯します。これは歴史が証明しています。人間は自分の罪の責任を全て負うとしたらもう滅びてしまうしかないのです。それで良いのでしょうか?
人間の理屈なら、それは当然のことなのかもしれません。しかし、神はそれを良しとしませんでした。人間が自分の罪を自分で引き受けて死んでいく。滅びていく。神はそれを良しとしなかったのです。
ある意味それは理屈ではありません。神はただ世を愛したのです。私たちを愛したのです。神は罪を繰り返す私たち人間が「自業自得」で滅びることを良しとされませんでした。神はそのような罪深い愚かな私たち人間を愛して、その罪を赦すために、主の僕にその苦しみを、本来は私たちが引き受けるべき苦しみを負わせたのです。
それは理屈ではありません。でも、愛が理屈にかなっていたらもはやそれは愛とは呼べません。愛とはそもそも理不尽です。
「罪人は罰する」、それが理屈です。しかし、神の愛は罪人をゆるすのです。「敵ならば憎む」それが理屈です。しかし、神の愛は敵をも愛するのです。そのうえで敵の罪をゆるし、愛の交わりを与える。理屈に合わない理不尽の愛、それがイエス・キリストによって示された神の愛なのです。
そしてその愛の理不尽によって、わたしたちの罪が赦され、私たちは癒やされたのです。
この主の僕は罪を繰り返す私たちが赦されるようにその苦しみを通して、神にとりなしてくださったのです。この人間の知恵と経験では考えつかない神の愛の理不尽がこのイザヤ書53章の主の僕の姿に示されているのです。
さらにイエス・キリストの死は、政治権力による圧迫の犠牲という意味もあります。イエス・キリストは権力者(ピラト、ユダヤ教の祭司や律法学者、ファリサイ派)の横暴の犠牲となりました。抑圧の犠牲となりました。このことは今も各地で起こっている権力の弾圧によって苦しめられる弱い立場の人たちとイエス・キリストが共におられることをも示しています。
讃美歌(1954年版)532番に「ひとたびは死にし身も」という曲があります。私たち夫婦が大変お世話になった方がお好きな讃美歌でした。その讃美歌の3節の歌詞を紹介します。
「主の受けぬ苦しみも 主の知らぬかなしみも うつし世にあらじか いずこにもみあと見ゆ」
主の受けない苦しみも 主の知らない悲しみも この世にはない どんな所にも主の足跡が見える
ポンテオ・ピラトのもとに 苦しみを受け 死にて葬られたイエス・キリストは、私たちが人生で味わう苦しみも悲しみも全て受けられました。私たちが苦しみ、悲しむ時、その私たちの苦しみや弱さを理解してくださいます。そして共にいてくださいます。そして導いてくださいます。
主の僕が苦しみを引き受けた悲惨な姿、そこに神の愛の究極、理屈に合わない愛が示されています。それこそが過ちを繰り返す罪深いわたしたち人間の救いなのです。

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