2023年7月9日 あなたならどうする 私ならキリストを見ます

ローマの信徒への手紙第1章2-4節 牧師 木谷 誠
先週から使徒信条を学んでいます。本日は「我は、その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」をお伝えいたします。
「キリスト教とはどんな宗教ですか」と質問されると皆さんはどう答えるでしょうか?色々な答え方があると思います。
キリスト教はどのような宗教なのか?いろいろな答え方があると思います。田川建三さんのような答えもあると思いますが、私は学生の頃、通っていた教会の牧師さんからこう教えていただきました。
「キリスト教とは、イエス・キリストによって示された神を信じる宗教です。」
これも一つの答えだと思います。とても簡潔でわかりやすい説明です。
先週、使徒信条第一項で、私たち人間は何かを信じて生きている存在であるとお伝えしました。本日の使徒信条第二項は、さらにそれを具体的に伝えています。私たちが信じる神は、イエス・キリストを通して示される神なのです。
では、イエス・キリストを神と信じるとはどういうことか、イエス・キリストはどのような神であるのでしょうか?
イエス・キリストは「神の独り子」です。イエス・キリストは、その生涯の言葉と行いを通して、「天地の造り主、全能の父」である神を父と仰ぎ、誰よりも「父なる神」を愛し、従いました。
そしてイエス・キリストは父なる神の心をその生涯を通して伝えました。それが「その独り子」の意味です。
そしてこのイエス・キリストは「我らの主」です。この告白は、他に主はいない。自分たちはイエス・キリストを主と信じ、イエス・キリストに従うという意志の表明でもあるのです。
この使徒信条が書かれた頃は、ローマ帝国の時代です。ローマ皇帝の中には「皇帝礼拝」を強制する人もいました。
そのような中で、「自分たちが従う方はイエス・キリストである。イエス・キリストこそ主である。」との告白は命懸けの告白でもありました。
この命懸けの告白を一生続けるためには、どうしたら良いのでしょうか?
そのために私たちはイエス・キリストを見続けなければなりません。その手がかりは聖書の言葉にあります。さらに時あるごとに「イエスならどうなさるだろうか?」、「イエスならどう思うだろうか?」という問いを持って、自分の言葉と行いを吟味することを通して、私たちは、イエス・キリストを主と信じて生きることがどういうことであるかを知るのです。
その歩みは決して楽な歩みではありません。しかし、不思議なことに、この歩みを通して、私たちはイエスが私たちと共にいてくださること、私たちにイエスが寄り添い、慰め、励まし、導いてくださることを実感することができるのです。そしてイエスとの愛の交わりの喜びの内に歩むことができるのです。
この聖書のメッセージを準備していて、昔、いしだあゆみという歌手を思い出しました。「ブルーライト横浜」という歌が大ヒットしました。そのいしだあゆみが歌っていた「あなたならどうする」という曲を思い出しました。「あなたならどうする」、私たちの人生にはいろいろなことがあります。私たちは日々この問いを受けながら生きてています。
本当に人生はさまざまな決断の連続です。私たちは難しい問題と向き合わなければなりません。そして色々なことを決断しなければなりません。どうして良いかわからない時があります。それでも決断しなければならない、決断を迫られます。
あなたならどうする、私ならイエスを見ます。分かってもわからなくてもイエス・キリストを見ます。イエス・キリストに聞きます。「イエス様、どうしたら良いのですか。どうか教えてください。」そうといます。その時、イエスは常に私たちの道しるべとして私たちを導いてくださいます。また同時私たちに寄り添ってくださるのです。

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