2023年8月13日 聖霊降臨節第12主日礼拝

<死を超えるもの>切っても切れないイエスの絆
 牧師 木谷  誠
使徒信条について、いよいよキリスト教信仰の核心である「復活」についての証言「三日目に死人のうちよりよみがえり」、すなわちイエス・キリストの復活についてお伝えします。
実は「よみがえり」と言う言葉は、あのイエス・キリストの出来事を正しく表現してはいません。イエス・キリストの十字架の死から三日目に起こった出来事は、「死ぬ前の状態」に戻ることではないのです。「死ぬ前の状態」に戻った出来事はラザロの復活の出来事(ヨハネによる福音書11章)です。
しかし、「死ぬ前の状態」に戻ったラザロは再び死にました。十字架の死から三日目、イエス・キリストは、もはや死ぬことのない全く新しい命の姿で女たち、弟子たち、そして多くの人に現れました。
さらに新しい命に生きるイエス・キリストは、弟子たち、多くの人々と、再び親しく愛をもって交わってくださいました。私たち人間の交わりはそれがどんなに強いものであっても、死によって終わりになります。しかし、イエス・キリストはその死を乗り越えて、私たちに愛の交わりを持ってくださるのです。イエス・キリストの復活の出来事によって、死によってすら失われない愛の交わり、切っても切れないイエスの絆が実現しました。
「死ぬ前の状態」ではなく、全く新しい命の姿で、イエスは弟子たちを出会われ、親しい交わりを持ってくださいました。死を超えた、死によってすら取り去ることのできない交わり、それが「永遠の命」です。命は交わりなのです。
ところで、私は本日お読みいただきました聖書が大好きです。この聖書を初めて出会ったのは、大学院の二年生の時でした。その頃はまだ新共同訳聖書は出ていません。口語訳の聖書でした。それにはこう書いていありました。
「ダビデの子孫として生まれ、死人の中から甦ったイエス・キリストをいつも思っていなさい。これが私の福音である。」という訳でした。この聖書の言葉が私の心に響きました。
イエス・キリストはどんな方なのでしょうか?二つあります。
一つ目は「ダビデの子孫として生まれ」というフレーズが示しています。イエス・キリストはダビデの子孫として生まれました。それは神が約束した子どもということです。神はイスラエルに、救い主をダビデの子孫から産まれさせると約束されました。
そして約束の通り、イエス・はダビデの子孫として産まれました。この出来事によって、神は約束を守られる方、忠実な方、真実な方であるということが示されています。
さらに「ダビデの子孫」という言葉には、「人間として」という意味があります。神であるイエス・キリストが人間になりました。人間が受けなければならない苦しみも悩みも死もイエスは受けられました。イエスは徹底的に人間に連帯されたのです。イエスは人間の仲間となり、共にいてくださるのです。
二つ目「死人の内よりよみがえった」という言葉について、この言葉はイエス・キリストが死を超えた新しい命に生きておられること、死を超えた愛の交わりを持ってくださることを示しています。先ほども申し上げましたが、死は私たちの確実な未来です。誰もそれを乗り越えることはできません。
しかし、イエス・キリストはよみがえられました。死を超える新しい命、死によってすらきれない愛の交わりを実現してくださいました。
そして「これが私の福音である」とパウロは言います。
福音とは良い知らせのことです。ダビデの子孫として産まれ、死人の中から甦ったイエス・キリストの出来事は、「良い知らせ」なのです。それはパウロだけでなく、この言葉を聞くすべての人、私たちにとっても「良い知らせ」なのです。これはどういうことでしょうか?
その理由はイエス・キリストを通して示された神の真実、甦りによって実現した永遠の命、永遠の愛の交わりが、私たちにも分かち与えられるということです。
この「命」、死によってすら失われない命を、私たちにも分かち与えてくださいます。それゆえにイエス・キリストの復活の出来事は私たちの「福音」、すなわち「良い知らせ」なのです。
この良い知らせをいつも覚えていましょう。繰り返し確かめましょう。そして悦びに満たされ、励まされて、歩んでまいりましょう。

この記事へのコメント