使徒信条を学んでいます。今回は「死にて葬られ、陰府にくだり」についてお伝えします。教会の最も大切なメッセージはイエス・キリストの復活です。イエス・キリストが死人の中から復活したというからには、当然のこととしてイエス・キリストは十字架にかけられて死なれたということです。イエス・キリストの復活も大切ですが、イエス・キリストの死にも大切な意味があります。
イエス・キリストをどう理解するか?大きく二つあります。一つは私たちの罪の贖いです。このことを強調したのは内村鑑三です。私たちの罪を私たちに代わって償う「罪の贖い主」としてのキリストの死の意味を内村は強調しました。二つ目は私たちに寄り添う「同伴者」というイエス理解です。イエス・キリストの「同伴者」としての面を伝えたのは遠藤周作でした。私たちの罪と弱さに寄り添い、どこまでも共にいてくださる「同伴者」としてのイエス・キリストを遠藤周作は伝えました。そして十字架の死も同伴者としての究極の姿であると遠藤周作はその小説の中で伝えています。
例えば遠藤周作の小説の中で大二次世界大戦中、収容所でこれから処刑されていく人の側にイエスの姿が見えたという場面があります。死に際して、私たちはどうしても死にゆく人について行くことはできません。ここで遠藤周作は死にゆく人になお寄り添っていく「同伴者」としてイエス・キリストを描いています。
イエス・キリストの死の意味をどう理解するか。先週お伝えした「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」は「贖いの死」を強調しています。そして「死にて葬られ、陰府にくだり」は「同伴者としての死」を強調しています。
イエス・キリストは十字架にかけられて死なれました。それは紛れもなく本当の死でした。決して「仮死状態」でもなければ、「かりそめの」死でもありません。私たちは経験したことはありませんが、死の苦しみも痛みも全て割り引くことなく、むしろ普通の死よりも遥かに苦しく、痛く、辛い死をイエス・キリストは受けられたのです。
そして死んで葬られました。この死は三日後の復活までの「一休み」ではありません。復活の大切さはいくら強調しても良いですけれど、イエス・キリストの死の意味、葬られたこと、陰府にくだったことの意味を決して忘れてはなりません。
詩編の139にはこう書いてあります。
7どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。8天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。
イエス・キリストが死なれ、葬られ、陰府にくだった出来事は、この詩編139の実現、成就なのです。イエス・キリストは、死んで陰府に堕ちてしまう私たちをそこから引き上げるために、ご自身、十字架で死んで、陰府にまでくだられたのです。
高校生の頃、私が大変お世話になった若い牧師さんに言われました。「イエス・キリストは決して私たちを離さないんだよ。私たちが地獄に堕ちたら、地獄までイエス・キリストはついて来てくださるんだよ」と。
イエス・キリストは私たちとどこまでも一緒にいてくださいます。死の果てまでも、誰もついていけない陰府にまでも、イエス・キリストは共にいてくださいます。そればかりではありません。イエス・キリストは、私たちを死から、陰府から引き上げ、天へと神との愛の交わりへと連れていってくださるのです。「死にて葬られ、陰府にくだり」という使徒信条の第3項目にはそのような大切な意味があるのです。イエス・キリストという方は、死にゆく私たちに対して「どこまでも、死の果てまでも」寄り添い、導いてくださる究極の「同伴者」なのです。
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