テサロニケの信徒への手紙一 第4章13-18節
牧師 木谷 誠
使徒信条をお伝えしています。本日は「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまはん。」について、すなわちキリストの再臨についてお伝えいたします。
聖書では、歴史には終わりがあると教えています。それを「終末」と呼びます。
その終末の時にはイエス・キリストが再び地上においでになって救いを完成してくださる。それが「イエス・キリストの再臨」です。
私たちは救いの約束を信じて生きています。沢山のお恵みをいただいて、信仰の手応えを感じながら生きています。それでも、様々な出来事の中で、人間の罪深さ、弱さを、自分自身の中にも感じますし、自分の外の世界にも様々な罪深さがあります。
多くの痛ましい出来事があって、救いの確信が揺らぐ時があります。「すでに」救いの恵みをいただいて、神様との愛の交わりの中を歩んでいると信じても、まだ救いは完成していないという思いに打ちひしがれることがあります。
そのような私たちにとって、天に帰られたイエスがもう一度地上に来てくださって、救いを完全に実現してくださる。それが「キリストの再臨」です。イエス・キリストの「再臨」の約束は私たちに希望を与えてくれます。キリストの再臨の約束がなければ、私たちは人間の罪の現実に打ちのめされてしまうかも知れません。私の友人の牧師(故人)が常に言っていました、「終末論(キリストの再臨の約束)は信仰の背骨である」と。本当にそう思います。
そのキリストの再臨はいくつかの段階があります。携挙、大患難時代、キリストの再臨、最後の審判、千年王国、救いの完成です。
携挙とは耳慣れない言葉ですが、教会に連なる者たちが一瞬にして、天にあげられる出来事です。15節から17節に書いてある通りです。
詳しく申し上げたいところですが、今回はキリストの再臨に絞ってお話しします。
キリストの再臨はいつなのでしょうか?
ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。テサロニケの信徒への手紙一第5章
ここでパウロはキリストの再臨の日を産みの苦しみに例えています。産みの苦しみは必ず起きます。でもそれがいつかはわかりません。同じようにっきりストの再臨も必ず起きます。しかし、それがいつかはわからないのです。
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。マタイによる福音書第24章36節
そのキリストの再臨がいつであるのか、それは誰もわかりません。それは父なる神だけがご存じです。人には知ることのできない。神の「専権事項」、神の「神秘」なのです。
その日には、生きている者は新しい姿に変えられ、すでに死んでいた者はよみがえります。そして、イエス・キリストの前に立って、さばきを受けます。これが最後の審判です。「審きを受ける」と聞きますと怖い思いがします。
しかし、忘れてはいけないことがあります。最後の審判の時においでになるのは、イエス・キリストなのです。愛と憐れみに満ちた救い主イエス・キリストがおいでになるのです。イエス・キリストのさばきは、神の正義と愛と公平の実現です。イエス・キリストは救いを完成するために裁きが行われるのです。私たちはそのことを信じて、日々、神様の愛を喜び、恵みに応えて、神を愛し、愛のわざに励んでいれば良いのです。希望を持って歩んで良いのです。
キリストの再臨こそ再臨は信仰の背骨です。私たちの支えです。キリストの再臨の約束は私たちに希望を与えます。この希望によって、私たちは様々な問題を抱えるこの社会にあって、神様に従い、愛のわざに励みつつ生きていくことができるのです。キリストの再臨はそのように私たちの信仰を支える信仰の背骨なのです。
あの方(イエス・キリスト)が来てくださいます。お会いすることができます。希望があります。そして救いの約束を目に見える形で完成してくださいます。この約束は決して裏切られることはありません。希望を持って、歩んでまいりましょう。
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