2023年9月24日 聖霊降臨節第18主日・全召天者記念礼拝(世の富)

    <共に生きる群れ> 牧師 木谷 誠
マタイによる福音書 第18章20節
本日は「聖徒の交わり」についてお伝えします。この項目は教会の定義であると共に教会がどのような働きをなすか、教会の機能についても触れています。
それでは教会が「聖徒の交わり」であるとはどういう意味でしょうか?これまたどこか掴みどころのない感じがします。教会が「聖徒の交わり」という時、「聖徒」とは前回示された通り、「神に属する者たち」を意味しています。そしてその交わりは「キリストと共にある交わり」です。イエス・キリストを主と信じる者が二人以上集まる時、そこにイエス・キリストが共にいてくださるのです。「二人」は集まる人数の最小人数です。どんなに小さな集まりでもイエス・キリストは共にいてくださるという恵みをこの言葉は伝えています。
ここで「私もその中に」と言われています。この「中に」という言葉は、集まる一人一人の心の中にという意味もありますが、むしろ、集まる一人ひとりの「間に」という意味です。すなわちイエス・キリストを主と信じる者が集まる時、そこにイエス・キリストが現れて、その集まりを豊かな恵みで満たし、その集まりはその恵みを分かち合い、より強く結び合わされるのです。それは聖霊の働きによって可能となります。そのように「聖徒の交わり」は「キリストとともなる交わり」です。
さらに「聖徒の交わり」の具体的な様子を聖書には以下のように記しています。
44 信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、45 資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。46 そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、47 神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。使徒言行録2:44-47
ここに聖徒の交わりである教会の原点とも言える様子が書かれています。聖徒の交わりである教会は、一緒にいて、持ちものを分かち合い、心を一つにして礼拝(宮もうで)し、 共同の食事をし、神を賛美することです。これが教会の具体的な交わりの姿です。
そして「聖徒の交わり」の中心はキリストであり、具体的な営みは共に礼拝することから始まるのです。
辻宣道牧師という方がおられました。辻宣道牧師は、青森のホーリネス教会の牧師の息子としてお生まれになりました。戦争中、1942年に行われたホーリネス教会の弾圧事件がありました。その中で、辻牧師のお父様も逮捕され、獄中で亡くなりました。その際の日本キリスト教団の対応は実に冷淡で、牧師とその家族を見捨てたと言っても良いものでした。教団から見捨てられた牧師家族の苦労はそれは大変なものでした。その苦労の中から、辻宣道牧師は迫害にも屈しない強い教会形成を目指して静岡県の草深教会の伝道牧会に励まれました。
そして1988年、辻宣道牧師は、日本基督教団総会議長に選ばれました。46年前に日本キリスト教団が見捨てた牧師の息子が、日本キリスト教団の議長になりました。本当に神様のなさることはすごいと思いました。
さて、その辻宣道牧師が書かれた本に「教会生活の処方箋」という本があります。その中で教会の交わりの中心はキリストであるということを強調しています。キリストを見失っては、教会の交わりは成り立たない。常に教会の中心にキリストがいるように努めなければならない。教会の交わりはキリストを常に意識したものでなければならないと警告しています。教会の交わりがキリストを中心とした交わりになるために必要な具体的な営みが、礼拝なのです。それは一緒にいて、持ちものを分かち合い、心を一つにして礼拝(宮もうで)し、共同の食事をし、神を賛美することということもできます。
その礼拝の中心は神の言葉(聖書朗読とそれに仕える説教、そして主の聖餐)です。
「聖徒の交わり」である教会はキリストと共にそして神が愛するすべての人々と共に生きる群れです。
私たちは常に共にいて神を、キリストを礼拝し、キリストを、その愛を中心とした聖徒の交わりに励まされ、強められて共に歩みたいと思います。

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