「罪」といいますと、一般的には、法に従わないことを意味します。
しかし、聖書が伝える「罪」の理解は少し違います。いわゆる「悪いこと」はもちろん「罪」ではありますが、罪の本質ではありません。それらはより根源的な罪(原罪)から産み出される罪の「結果」なのです。
23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。-中略-28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。ローマ1:23-25、28-32
「罪」についての一般的なイメージは、29節から出てきます。人間は、神との関係を失い、神ならぬものに従うようになりました。それは自分の欲望であったり、人の言葉であったり、虚しい教えであったりしました。そのように神との関係を失ってしまった中で、結果として、人間は初めに述べました罪を犯すようになってしまいました。その最大のものが戦争です。
聖書が伝える「罪」、使徒信条で述べられる「罪」とは、そのようなより根源的な罪のことであり、私たちは指一本動かさなくても罪を犯してしまいます。罪は行為の問題であるよりも,より根源的には神との関係の問題なのです。
神との本来あるべき正しい関係、神との愛の交わりの関係を失ってしまって、それを自分の力では取り戻すことができない。それが私たちの罪のあり様、罪に捕えられた状態です。
そのような罪に捕えられてしまった人間の罪のゆるしを使徒信条は宣言します。それはいかにして可能となったのでしょうか?
聖書には厳しい原則があります。「罪は必ず償われなければならない」です。しかし、人間はこの罪を償うことができません。しかも、人間は繰り返し罪を犯します。このように罪に捕えられて、がんじがらめになってしまった人間の罪をゆるすために、神のひとり子イエス・キリストが、私たち人間の身代わりとなって、十字架で命を捧げ、人間が受けるべき罪の罰と呪いを引き受けてくださいました。これにより、私たち人間がなしえなかった罪の償いをイエス・キリストがご自分の命で成し遂げてくださいました。この十字架の贖い(あがない)によって、私たちの罪がゆるされました。
これにより、私たちは罪をゆるされ、神との愛の交わりに招かれています。このイエス・キリストの十字架の贖いを信じて、この招きに応えるものは、神との愛の交わりをいただくことができるのです。この神との愛の交わりの関係の回復こそが罪のゆるしなのです。
6月末、私は北海道でアイヌ差別について学びました。講師の方がお話を少し引用します。
昔、私が差別されているのを黙認した人がいました。その人と久しぶりに会いました。そしてその人が「ごめんなさい」と謝りました。私は言いました。「謝られても困ります。絶対にゆるしません。でも、あなたが私と友達になりたいなら、私はあなたと友達になります。」
「絶対にゆるしません」と言われたことは、過去の差別の事実を消すことはできないということです。それは認めなければなりません。その上で、「友達になります。」。罪の赦しとは関係の回復のことなのです。断絶してしまった神との関係が回復され、新しい愛の関係が与えられる。罪は本質的には関係の問題なのです。
使徒信条は「賛美告白」です。一つ一つの項目は、私たちに神の愛を具体的に伝えます。それを信じて受け入れる時、私たちは大きな喜びに満たされます。そして心から神を褒め称えずにはいられなくなる。それが「賛美告白」です。
「罪の赦し」をもたらしてくださった、イエス・キリストを主と信じ、このイエス・キリストに従って生きる時、私たちは神との愛の交わりを感じながら生きることができます。そしてこの罪のゆるしを感謝して、自ら罪を赦す者として歩んでまいりましょう。
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