使徒信条をお伝えしています。今回は「身体のよみがえり」についてお話しします。
学生の頃、肉屋でアルバイトしていた友達がいました。その彼がこういうことを言っていました。「肉はええもんやで。あのな、キリスト教はな、肉の宗教や。肉を大切にせなあかん」と。半分冗談でしたけれど、彼の言葉にはとても大切な意味が込められていました。そしてそれは今回「身体のよみがえり」を考える時、とても大切なことであり、恥ずかしながら私が今まで見落としていたことでもありました。
今まで私は「身体のよみがえり」について、終末の救いの完成の日に新しい命の体をいただくこととだけ理解していました。「身体のよみがえり」を未来の希望として理解していました。しかし、今回、使徒信条を学んでいまして、それでは不十分であることを示されました。
よく教会では、「目に見えないものを大切に」ということがあります。目に見えないもの、心、人間の内面は大切です。では、目に見えるもの、特に体は大切ではないのでしょうか?
決してそんなことはありません。目に見えるもの、人間の体、私たちの体も大切なのです。信仰が目に見えないことだけを大切にし、問題とするならば、それはとても抽象的な頭でっかちなことになります。信仰生活にとって、目に見えない心も目に見える体もどちらも大切です。救いとは、心と体の両方の救いなのです。
聖書が伝える救いは心の平安、慰め、希望などと言った目に見えない心の祝福だけではありません。救いは私たちのこの目に見える身体、肉体の祝福でもあるのです。
罪をゆるされ、神との愛の交わりを生きる私たちは、心も体も新しくされるのです。
19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
私たちの身体は、「聖霊の神殿(聖霊の住まい)とされます。私たちの身体の中に神の霊すなわち聖霊が住んでくださるのです。
20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
私たちの体が、聖霊の神殿、聖霊の住まいとされています。私たちの内に、私たちの肉の体の内に、聖霊が住んでくださり、わたしたちを慰め励まし導いてくださいます。それはイエス・キリストが私たちの罪がゆるされるために命を捧げてくださったことによって実現しました。「代価」はキリストの命です。キリストの命によって、私たちは、罪の奴隷から神の子へと解放されたのです。
だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
もはや、私たちの体は、自分勝手な欲望、野望を叶える道具でもなければ、人を傷つけるためにあるのでもなく、神の愛と栄光を伝える新しい神の「道具」、栄光ある神のものとされているのです。私たちは、この新しい体で神の栄光を表すのです。
私たちがこの今治の町で神の栄光を表すのは、他でもない、この体であらわすのです。体を使って、愛の業に励むことによって、私たちは神の栄光を表すのです。
それは今の喜びなのです。「体のよみがえり」は終末の日、救いの完成の日に新しい命の体を与えられる未来の希望です。それとともに、今、私たちの体が全く新しい意味を与えられて、神の栄光、神の愛を伝える「器」とされているという大切な今の意味、今の喜びがあるのです。
その時、私たちの肉の体は祝福され、神の愛と栄光を伝える「器」として用いられるのです。救いは体と心の総合的な祝福なのです。
「体のよみがえり」未来の希望であるとともに今の祝福です。今、私たちの体、肉体の祝福です。あえて言えば「肉の祝福」です。神の霊、聖霊は脆くて弱い肉に宿るのです。神の霊はそれ以外には宿りません。肉のみが聖霊を宿すことができるのです。これも肉の祝福、肉体の祝福です。体の祝福です。
私たちは、今、この 祝福された 身体、新しい意味を与えられた身体を用いて、神様の愛と栄光をこの今治の町に伝えます。そして救いの完成の日には、さらに栄光に輝く新しい命の身体をいただいて、神を褒め称えるのです。身体を与えられていること、体が祝福された神の「器」とされていることに感謝して、神の愛と栄光を私たちの体を通してこの今治の町に伝えて参りましょう。
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