空中に飛び交う電波はラジオやテレビと言った受信機で増幅しなければ聞くことができません。
それと同じように、私たちに神様は語っておられますが、私たちがそれを直接聞くことができません。
それで耳に聞こえない、み言葉である神様が肉をまとって、この地に来られたのです。
言ってみれば、イエス様が一種のラジオの役割をするために来られたと言うことです。
それを信じる私たちは生きるにしても、死ぬにしても・・私たちにはキリストのすばらしさが現される様に渇望しなければなりません。
この場合、主が私達をどの様な姿で造られたかは関係ありません。
背が低いと言って劣等感を持ったり、逆に背が高いと言って優越感を持つ必要もありません。
目が小さい、目が大きい・・挫折も傲慢も感じる必要がありません。
いま貧しければ貧しいように、いま、豊かなら豊かなように、学歴が高ければ高いように、そうでなければそれなりに、自分の人生で、ただ、キリストだけを現す生活を送る心があれば良いのです。
それが私たちを造られた主の御心に叶う生き方なのです。
そして、皆さんが生命であるイエス様の中におられるなら、皆さんの人生に、その生命が現れる様になっています。
み言葉の中に生命があるので、その生命は現象として現れる他はないと言うことなのです。
信仰を持って、み言葉を聞くなら、必ず喜びが湧き上がり、悔い改めの涙が流れて感謝する心が生まれます。
なぜなら、み言葉自体に生命があるからなのです。
生命の木の実であるイエス・キリストを食べるなら、生命が現象として現れ、善悪を知る木の実を食べれば死が現象として現れるようになるのです。
たとえ、苦しみ、悲しみがあったとしても、決して絶望しないで下さい。
希望の中に喜びを持って下さい。
それが生命の中にいる人達の姿だからです。
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