2023年12月10日 待降節第2主日礼拝

<先立つ者>     牧師 木谷  誠
マラキ書 第3章19-24節
12月24日をクリスマス礼拝として、その前の四つの日曜日にアドヴェントの聖書を朗読しています。そのため本日はアドヴェント(待降節)の第三の礼拝となります。この日のテーマは「先駆者」です。
旧約聖書の最後の書であるマラキ書は、救い主の到来とそれに先立つ者すなわち「先駆者」を指し示し、新約のイエス・キリストの出来事へと引き継がれます。このつながりは実によくできています。旧約聖書の構成は、キリスト教ではなく、ユダヤ教が定めました。新約聖書が成立する前にすでにマラキ書は旧約の最後に置かれていたのです。不思議です。まさしく神のご計画と呼ぶ他ないつながりです。
マラキ書は「その日」の到来を告げます。「高慢な者、悪を行う者」にとって、「その日」は藁のように燃やされてしまう恐ろしい日です。しかし、主を「畏れ敬う者」にとって、「その日」は「義の太陽」が昇る日、すなわち、神の御心が示される日です。「畏れ敬う者」は、「義の太陽の翼」によって癒やされ、躍り出て飛び回る程の喜びに満たされます。その日を、恐ろしい日ではなく、喜び出て飛び回る日として迎えるためにどんな身支度が必要なのでしょうか?
その日は、神の恵みのご計画によって定められています。その日が来たとしても、私たちが身支度をしなければ、その日を「喜びの日」として迎えられません。せっかく義の太陽が昇り、私たちの心の部屋を明るく照らしたとしても、私たちが心の部屋の窓を開けていなければ暗いままです。義の太陽の癒しと喜びを受けることはできません。
先立つ者、「先駆者」として、私たちに示されているエリヤは、新約聖書の初めに洗礼者ヨハネとして登場します。その役割は、「父の心を子に向け、この心を父に向け」ることです。
父、すなわち神の心は、すでに子(わたしたち)に向かっています。父なる神は、私たちに関心を持っていてくださいます。私たちとの交わり、愛の交わりを求めておられます。父なる神から差し出される愛の交わりへの招きを私たちが受け入れる時、私たちと神との間に愛の交わりが成り立ちます。私たちの上に、義の太陽が昇るのです。
そのための良い身支度は、神を「恐れ敬う」ことです。この主を「畏れ敬う」ことと「悔い改め」とがつながるのです。洗礼者ヨハネは、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を人々に勧めました。今、洗礼者ヨハネは私たちにも「悔い改め」を勧めています。それこそが、義の太陽であるイエス・キリストを受け入れる最も良い身支度だからです。
心を父(主)に向け、罪深い自分に注がれている父の愛を感謝して受け止め、主を「畏れ敬う」者として歩み出すことが悔い改めです。
悔い改めというと、なんだか、重苦しい、罪の意識に打ちのめされて下を向く営みのように思えます。そういう段階も必要ですが、それは最終的な姿ではありません。そのような罪深い私たちに心を向け、深い愛を注ぎ、命を捧げてまで、私たちの罪をゆるしてくださった神の愛を受け入れ、心から感謝して、神を「畏れ敬う」者として歩み出すこと、それが悔い改めです。その時、私たちは、「義の太陽」として私たちを照らすイエス・キリストによって癒やされ、喜び、躍り出ることができるのです。

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