2023年12月17日待降節第4主日礼拝(告知)<わたしは来て、あなたのただ中に住まう>  牧師 木谷  誠 ゼカリヤ書 第2章14-17節

本日お読みいただいたゼカリヤ書は、旧約聖書の区分では、12小預言書の一つです。「小」とついていますのは、短いからです。内容的には決して「小」ではありません。とても大切な「大きな」意味を持つ内容が記されています。
たとえば「義人は信仰によって生きる」を歴史の脈絡の中でダイナミックに伝えるハバクク書は、パウロの信仰義認論、そしてルターの宗教改革の大きな力となりました。聖霊のダイナミックな働きを意外性に満ちて表現するヨエル書は、ペンテコステ、聖霊降臨の出来事を預言しました。先週のマラキ書は、義の太陽としてのイエス・キリストを迎え入れる身支度を具体的に示し、旧約と新約をつなぎました。
そして本日お読みいただいたゼカリヤ書も生き生きとした神の救いの風景(8:4-5,その中心は子どもと高齢者)やロバに乗ってやってくる救い主の預言(9:9)でイエス・キリストを指し示しています。
そのゼカリヤ書が告げる「その日」は大いなる喜びの日です。何が大いなる喜びなのでしょうか?それは「わたしは来て、あなたのただ中に住まう」という知らせです。主なる神が来て、私たちのただ中、「真ん中」に住んでくださいます。もし、主なる神が、冷酷無比で恐ろしい方であるならば、その日は「喜びの日」にはなりません。私たちの「ただ中に住まう」方は、私たちに寄り添い、共に喜び、共に泣いてくださる方です。私たちの罪をゆるし、その罪の償いのために命を捧げてくださる方です。そのようにして深い愛の交わりをもたらしてくださる方なのです。ゼカリヤ書が預言する主なる神は、イエス・キリストの姿でおいでになりました。
それは、私たちにとっては、大きな喜びです。しかし、イエス・キリストにとっては、決して楽なことではありませんでした。
私たち人間が生きる現実は非常に厳しい時があります。病、悩み、不和、争いなどなど、さまざまな困難があります。イエス・キリストは、そのような困難な現実の「ただ中」に来て、「住まう」のです。それは痛みを伴います。しかし、そのようにイエス・キリストが共にいてくださることによって、様々な困難にある私たちを喜びと希望へと導いてくださるのです。
このわたしは来て あなたのただ中に住まうという言葉について、もう少しご一緒に考えてみましょう。このゼカリヤ書の言葉は個人的な呼び掛けでしょうか?「あなた」とは一個人なのでしょうか?私はそうではないと思います。この「あなた」はイスラエルの共同体を意味しています。この「あなた」は今、私たちの教会の交わりにも当てはまると思います。つまり、主なる神は共同体の「ただ中」に住んでくださるのです。そしてその共同体に属する者を喜びで満たし、その構成員を喜びで繋いでくださるのです。主なる神は、私たちのただ中、すなわち私たちの心の中だけでなく、私たちの交わりの間にも住んでくださるのです。そして私たちの交わりを結びつけてくださるのです。
主なる神は、私たちの交わりの「ただ中」に、私たちの間に、来てくださり、私たちを喜びで満たし、私たちをつないでくださいます。先日、それを実感した出来事がありました。
ある姉妹のお葬式が行われました。身寄りのない方で、前夜式にもお葬式にもいわゆる「ご遺族」は一人もおられませんでした。そのようなお葬式は初めてでした。それでも教会の人たちがたくさん集まってくださいました。その姉妹は教会を愛していました。神様も教会の皆さんもその姉妹を愛していました。そのお葬式は大きな慰めと愛に溢れた時間でした。どうしてこのような恵まれた時間になったのでしょうか?
ご出席くださった方々の主にある交わりの豊かさがそれを実現したのでしょう。なによりもそのお葬式のただ中に主がおられました。主はそのお葬式のただ中に住んでおられました。だからこそあのように温かい慰めに満ちたお葬式になったのです。「わたしは来て あなたのただ中に住まう」という主の言葉が、本日の聖書の言葉が、本当なのだなとつくづく思いました。
「わたしは来て あなたのただ中に住まう」
私たちの心の中に、そして私たちの交わりの中に、私たちの間に、イエス・キリストがいて住んでくださるのです。そのことに常に感謝して、クリスマスの恵みを受け入れてまいりましょう。

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