2024年2月4日降誕節 第6主日礼拝

説教 <起き上がりなさい。歩きなさい。>    牧師 木谷  誠
ヨハネによる福音書 第5章1-18節
高校生の頃、私の母教会では、ヨハネによる福音書連続講解説教をやっていました。連続講解説教とは、例えばヨハネ福音書講解説教というなら、最初から順番に礼拝で朗読し、説教していくというスタイルです。ちょうど今日の聖書を取り上げる礼拝の時、なんともやりきれない気持ちになったことをよく覚えています。
このベトザタの池の回廊に38年間、体の麻痺で苦しんでいる人がいました。池の水が動く時、一番にそこに身を浸せば癒されると言われています。しかし、そんなことはとても無理でした。自分でも無理、誰からも助けてもらえません。この人がベトザタの池の水が動く時に、一番にその池の水に身を浸すことは全く不可能でした。これまでも不可能だったでしょうし、おそらくこれからも不可能はでしょう。
もしかしてこの人も最初は希望を抱いていたのかもしれません。しかし、その希望は挫け、心が折れていたのだと思います。この人は希望を見失っていたことでしょう。本当にどうしようもない状況です。
そのような絶望が支配する場所にイエスが来てくださいました。人間の弱さ、惨めさ、希望のない現実に神の子が降りてきてくださいました。そしてイエスはこの人に「良くなりたいか」と尋ねたのです。この人は驚いたと思います。すっかり望みを失ってしまって、そんな思いもなくなっていたことでしょう。
そのような人に対して、イエスは、もう一度自分が何を望んでいるのかを尋ねたのです。「できる、できない」に関係なく、自分を苦しめている困難な現実から本当に救われたいと願うのか?イエスはそう尋ねたのです。
この人は、もうそのような希望を願いを持つこともできませんでした。人間の知恵、経験、知識ではもう可能性はありません。しかし、イエスはそうではないと言うのです。人間が希望を見出し得ないところに希望がもたらされる世界があることをイエスは告げています。それは神がもたらす希望の世界です。
私たちも自分たちの知恵や経験からは不可能と思えることが多くあります。しかし、私たちが絶望しても神は絶望していません。イエスは絶望していません。そこにも希望がある神の働きの世界があるのです。私たちは希望を持って、祈り願い続けることが大切です。この年も不可能を可能とする神の働きを信じて歩み出していきましょう。

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