2024年2月11日降誕節 第7主日礼拝 (奇跡を行うキリスト) 説教  <信じ、捧げ、分かち合う> 牧師 木谷  誠

本日の聖書は「五千人の供食」呼ばれ、マタイ、マルコ、ルカを含めて四つの福音書全てに記されています。イエスが、わずかなもの(二匹の魚と五つのパン)を用いて多くの人を養われた奇跡物語の代表的な出来事です。
ただ、マタイ、マルコ、ルカと異なり、ヨハネ福音書だけにある特徴があります。それは子どもが登場していることです。二匹の魚と五つもパンを捧げたのはこの少年、すなわち子どもであるということが明記されているのはヨハネ福音書だけなのです。
私は、長年幼稚園長をさせていただいております。日々の食事、行事の中で、子どもたちがお弁当を食べる場面に何度も接してきました。遠足の時には、子どもたちがおやつのお菓子(グミとかラムネ、とかハイチュウなどなど)を持ってきてくれます。とても嬉しいです。でもお弁当をくれた子どもはいません
子どもにとって親が作ってくれたお弁当は特別な意味があるのです。それは単なる食べ物以上のものです。子どもたちはそれが親の愛情のこもったかけがえのない贈り物であることを知っているのです。ちなみに私も高校生の頃、母が作ってくれたお弁当を残したことはただの一度もありませんでした。それほど大切なお弁当を子どもが差し出すということは、自分が親からもらったかけがえのない宝物を捧げるということなのです。
ではどうしてこの子はそんなにも大切なお弁当を捧げたのでしょうか?
いくつか理由が考えられます。
その一つは、本当にみんなが困っていたことが子どもにもわかったからでしょう。大人が困っているということに子どもはとても敏感です。そして何とか助けになりたいと考えたのでしょう。そのためには大切な大切なお弁当を捧げても良いとこの子は思ったのでしょう。
もう一つ、これがとても大切なことだと思いました。おかしな言い方をします。この子は、この状況(五千人以上の人たちの食べ物が不足している。)の中で自分の捧げるお弁当では全く役に立たないとは考えなかったと言うことです。大人ならすぐにわかることですが、子どもですから、それはわからなかったのかも知れません。
困難な状況に対して、自分の持てるものでは全く役に立たない。大人はそう計算して簡単に諦めてしまうところがあります。
子どもはそうは考えませんでした。困難な状況に対して、自分のできることはほんの僅かだとしても、諦めないで自分のできることを捧げる。それがとても大切なことであるとこの出来事は私たちに教えています。
もう一つ、そこにイエスがおられたと言うこともあるでしょう。イエスなら何とかしてくださる。自分はイエスの役に立ちたい。この子どもはそう思ったのでしょう。
そのような思いでこの子は二匹の魚と五つのパンを捧げました。それは五千人の人々の必要を満たすには取るに足りないものですが、この子どもは本当に思い切って、強い思いを持ってこの二匹の魚と五つもパンを捧げたのです。
その子どもの心のこもった捧げ物をイエスは祝福してくださいました。きっとイエスは大喜びで心から感謝して受け取られたことでしょう。それがこの子どもにとってどれほど大切なものであったか、イエスはよくおわかりでした。
そしてイエスはこの捧げ物、二匹の魚と五つのパンを用いて、五千人の人々を豊かに養いました。二匹の魚と五つのパンの捧げ物は、イエスによって祝福され、多くの人々と分かち合われたのです。その祝福は、そこにいる人たちを満たして余りあるほどの豊かなものでした。
私たち一人ひとりの力は、取るに足りないささやかなものです。しかし、心を込めて神に捧げる時、イエスに捧げる時、それは豊かに祝福され、私たちの計算を超えた素晴らしい恵みをもたらします。
私たちもこの子どもにならって、私たち持てるものを、私たち自身を、心を込めてイエスにお捧げしましょう。その時、私たちの知恵と経験を超えるゆたな実りの世界、分かち合いの喜びの世界が開けるのです。

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