教会の暦では、先週の水曜日は「灰の水曜日」と呼ばれ、この日から受難節が始まりました。そして本日より受難節の礼拝となりました。受難節は、復活日(今年は3月31日)の前の日曜日を除く四十日間の期間です。主イエス・キリストの十字架の苦難と死を覚え、悔い改めしつつ、復活の喜びの祝いに備える期間です。
さて、受難節の最初の日曜日、聖書朗読箇所は、毎年イエスの荒野の誘惑の出来事です。日本キリスト教団の教会暦の聖書朗読は四年サイクルで、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書朗読を軸にしています。今年はヨハネによる福音書の順番ですが、実はヨハネによる福音書にはこの荒野の誘惑の記事がないのです。そこでマタイによる福音書の荒野の誘惑の記事が本日は朗読されているのです。
いささか説明が長くなってしまいました。ではなぜ、荒れ野の誘惑の出来事が記された聖書箇所を、受難節の始まりに朗読するのでしょうか?それはイエスが十字架の苦難の歩みへと踏み出す決定的な決断がこの出来事の中でなされているからです。
最初のパンの誘惑では、イエスは、自分の力で自分を養うことを拒否し、神の言葉、神との愛の交わりによって自分は養われると表明しました。イエスはどこまでも神にご自分を委ねる決断をしたのです。
第二の高いところから飛び降りてみろとの悪魔の誘惑に対して、飛び降りることが信仰的のように思えますが、そうではありません。そもそも試みるということは、相手を信頼していない証拠なのです。だからイエスは飛び降りません。神を試みません。その必要はないのです。イエスはここで父なる神を100%信頼することを告白したのでした。
第三の誘惑こそ、悪魔の主目的でした。悪魔は、この世のあらゆる富と繁栄と引き換えに、父なる神を捨てて、悪魔を礼拝することを要求したのです。イエスは拒否します。イエスはこの世のいかなる富よりも繁栄よりも父なる神に仕える道を選んだのです。
旧約聖書の律法の要約として、モーセの十戒が有名です。どの戒めも大切ですが、最も大切で根本的な戒めは第一の戒め、「あなたは私の他、何者をも神としてはならない。」です。ここに十戒の全てがあると言っても過言ではありません。イスラエルの民が神として崇め、賛美し、従う方は、エジプトから救い出してくださった神「ヤハウェ」のみであること、他の何者も神としてはならないこと、これが最も大切なことでした。他の戒めはこれを側面から支えるものでしかありません。逆に言えばこれさえ守っていれば大丈夫ということもできます。もっともこの戒めを守ることは決して簡単ではないのですが・・・・イエスはこの荒野の誘惑の出来事において、最も大切な十戒の第一の戒めをしっかりと守って生きる決断、僕として神に仕える決断を表明したのです。
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