ヨハネによる福音書第15章18-27節
本日の聖書を読んでいまして、私は今治教会の創立期のことを思い出しました。今治教会創立の年、明治12年は、キリシタン禁制の高札が撤回されてからまだ僅か6年しか経っていませんでした。そのような厳しい時代の中で、当時の人々、私たちの先輩たちは決断して、洗礼を受けたのでした。その人たちの覚悟は並大抵のものではなかったことでしょう。
それは今治教会に限ったことではなく、明治時代の教会には似たようなエピソードがたくさんありました。厳しい迫害もありました。伊予小松教会はより厳しい迫害を受けたと聞いております。
初代教会の人々が受けた迫害はもっと凄まじいものであったことが歴史の資料を読むとわかります。初代教会の人々は、そして明治期のキリスト者たちは、いったいどうやって、そんな迫害を乗り越えていくことができたのでしょうか。
明治時代の人はとても強い人たちだったからでしょうか。確かに今の平和な時代に生きる私たちよりもはるかに困難な時代でしょうから、とても強い人たちだったことでしょう。でもそれが迫害を乗り越えて信仰を守った理由でしょうか。私にはどうしてもそうは思えません。イエスが強い人と共にある神ならば、それは聖書に書かれてあるイエスの姿と矛盾するように思えます。
彼らが迫害や困難を乗り越えて、信仰を全うできたのは、彼らの人間的な強さ、能力ではなく、聖霊という「弁護者」がいたからなのです。聖霊という「弁護者」は、イエスが天に昇られた後、イエスに代わって天から降ってきた目に見えない神の働き、または力です。この「弁護者」は信じる者に寄り添い、支え、励まし、助け導く神の働きです。この聖霊という「弁護者」が信じる者のうちに働きかけてくださったから、彼らは迫害や困難を乗り越えることができたのです。
少なくとも今現在、私たちが、初代教会の人々や明治期の人々のような迫害や困難を受けることはありません。キリスト教を信じてるという理由で警察に捕まることはありません。しかし、今の時代にも困難や難しい課題があります。また私たちは未来に大きな不安を抱えています。そのような中にあって、私たちは聖霊という「弁護者」をイエスが約束してくださっていることが大きな支えです。この聖霊はヨハネの時代から今に至るまで生き生きと働いています。そして聖霊によって私たちの心に神の愛が注がれています。
ローマの信徒への手紙第5章3-5節
3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
またヨハネによる福音書第14章にはこの「弁護者」としての聖霊についてこう書いてあります。
16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
聖書を読み、祈るとき、礼拝に参加するとき、この聖霊が生き生きと私たちに働いてくださることに気づきます。そして私たちはこの聖霊なる「弁護者」によって、神の愛を心に受け、喜びと感謝を持って、イエス・キリストを証しするものとして歩むことが可能となるのです。
最後にマルコによる福音書第14章11節をお読みします。
11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
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