本日は、イエス・キリストの昇天を記念する礼拝です。イエス・キリストは救い主として、私たちの罪が神にゆるされるために十字架にかかり、私たちに変わって罪を償われました。これが罪の贖いです。そしてイエスは十字架の死から三日目に復活されました。イエスは死に打ち勝ち、新しい永遠の命、永遠の愛の交わりを実現し、人々を招いています。そのようにしてイエスは神から与えられた使命を果たして、天へと昇っていかれます。これがキリストの「昇天」です。神から委ねられた使命を果たして、私たちの罪の赦しと神との永遠の愛の交わり、すなわち救いを実現してくださったイエス・キリストに心から感謝し褒め称えたいと思います。
しかし、イエスが天に昇っていかれるということは、弟子たちにとっては、イエスとの別れを意味します。それは弟子たちにとっては、とても心細いことでした。
そこでイエスはご自身に変わって、「弁護者」としての霊、すなわち聖霊が降って弟子たちを守り支え、導くという約束を与えられました。この聖霊はここでは「水」にたとえられています。水は私たちの命を養う上で決して欠くことのできないものです。それと同じように、聖霊も私たちの霊的命(神との交わり)を維持する上で決して欠くことができないものなのです。この聖霊を「飲む」ということはいったいどういうことでしょうか?
それはイエスを神から派遣された救い主と信じるということです。そしてイエスの言葉を神の言葉として信じることです。その神の言葉は聖書に書いてあります。この言葉を信じて受け入れる行為が「飲む」という言葉で表現されています。
先週の子どもの教会の礼拝で、聖書の言葉を信じることについて、「食べ物はお口からお腹に入ります。神様のお恵みは、聖書の言葉です。それは目と耳から心に入ります」とお話ししました。私たちが聖書の言葉を信じて受け入れる時、聖霊が私たちのうちに入ってきます。そして私たちを喜びと感謝で満たすのです。聖書の言葉を信じることはイエスを信じることと同じです。聖書はイエス・キリストを証ししているからです。その時、聖霊が私たちの心に豊かに働いていることに気づきます。そして私たちを喜びと感謝で満たします。さらにそれは川の流れのように豊かに周りの人にも伝えられていくのです。この「水」、聖霊によって与えられる神の恵みは決して尽きることがありません。ヨハネによる福音書第4章14節にはこう書いてあります。
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
イエスを信じることによって与えられる「水」、聖霊によって与えられる恵みを喜びと感謝をもって受け取り、それを溢れさせて、多くの人々と分かち合いながら歩んでまいりましょう。
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