2021年04月08日

3月28日 説教要旨

十字架の言葉

2021年3月28日 受難節第6主日・棕櫚の主日 (十字架への道)
コリントの信徒への手紙一 第1章18-25節
牧師 木谷 誠

 本日は、棕櫚の主日です。今日から受難週が始まりました。来週には、復活日・イースターを迎えます。
 さて、本日の聖書に出てくる「十字架の言葉」という言葉は、とても印象的な言葉です。ちょっと意外に思われる方もおられるかも知れませんが、この言葉は、実は聖書の中でここにしか出てきません。この言葉は、どういう意味なのでしょうか?「十字架の言葉」とは、イエス・キリストの十字架の出来事とそのメッセージです。メッセージの内容は何なのでしょうか?それはこうです。尊い神のひとり子、イエス・キリストが、私たち罪人の救いを実現するために、最も惨めな十字架刑で死なれた。これが「十字架の言葉」に示されたイエス・キリストの出来事とそのメッセージです。この「十字架の言葉」は、ユダヤ人にとっては受け入れがたい「つまづき」でした。なぜならユダヤ人が長年にわたって待ち望んでいた「メシア(キリスト)」、すなわちユダヤの独立を回復する政治的、軍事的指導者のイメージとかけ離れているからです。また、この「十字架の言葉」は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどによって優れた哲学を生み出したギリシア人からすると全く不合理なメッセージ、すなわち「愚かな」ことでした。しかし、今日の聖書は、この十字架の言葉に神の力、神の知恵があるというのです。ユダヤ人が期待する政治的、軍事的指導者としての栄光とは真逆の惨めな十字架の姿です。ギリシア人が愛する美しく合理的な知恵の体系とは全く合わない愚かで不合理なメッセージです。どうしてそこに神の力と知恵が示されたのでしょうか?ここで考えなければならないことがあります。それは愛は不合理だということです。正しい者を愛し、悪い者を憎む。これは合理的です。しかし、それで誰が救われるのでしょうか?全知全能の神を前にして、誰が自分の正しさを誇ることができるのでしょうか?神は、私たちを愛する故に、あえて不合理で愚かな十字架の姿によって、その愛を示されました。私たち人間でも、愛する我が子であれば、愛する友であれば、愚かであっても、裏切られても、なお信じて、愛そうとします。そのような親や友の愛によって、私たちは何度もゆるされて、今の人生を生きている(生かされている)のです。限界ある人間の愛ですらそうです。ましてや、完全な愛を持っておられる父なる神は尚更です。神の愛は、罪深い者の罪をゆるし、神の子としての永遠の祝福へと招きます。それが「十字架の言葉」なのです。この神の力と知恵を人間は理解できませんでした。人間は、全てを知ることはできません。この十字架の言葉を与えてくださった神の前で、自らの傲慢を戒め、へりくだることが求められています。そしてそのような低い姿勢こそ神の知恵と力を受け入れる最もよい身支度です。
 人間の知恵では到達できない「十字架の言葉」に神の力と知恵が示されています。この「十字架の言葉」を信じることによって、私たちは神の力、神の知恵をいただくことできるのです。「十字架の言葉」を信じることによって、私たちは罪の赦しと神の子としての永遠の祝福をいただくことができるのです。
 受難週の始まりのこの日、私たちはこの「十字架の言葉」に耳を傾けてイースターまでの歩みをなして参りたいと思います。
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2021年03月29日

3月21日 説教要旨

あえて低みに立ってみよう

2021年3月21日 受難節第5主日 (十字架の変容)
マタイによる福音書 第20章20-28節
伝道師 𠮷川 庸介
 
 私たちが、普段の生活の中で報われたとか、満足だと思う時は、自分のやったことについて成果が出た時でありましょう。そこにあるのは、私たちがごく当たり前のように心に抱く、喜びの感情に違いありません。ただそこに、これであの人よりも評価されるとか、誰かよりもうまくやりたい、権力を持ってやりたいと、そんな感情を思わず抱いてしまうことはないでしょうか。
 イエスが自らの死と復活を告げ知らせた後、ヤコブとヨハネの母親がイエスのもとへ来て、二人の息子の天の国での地位を願ったとあります。願いを聞き、「私の杯が飲めるか」と返すイエスに対し、二人はもちろんですと返します。ここでの杯を飲めるかという質問は、十字架に至るという最も重い苦しみを分かち合えるか、またその後の神の国を伝える旅での困難を受け入れるのか、との意味を持ちます。イエスの質問に、もちろんと返した言葉は、なんら曇りもない美しいものであります。彼らは十字架にかけられるイエスを前に逃げ出しはしたものの、最後には殉教という苦難を受け止めたことを思うならば、彼らのイエスを信じる心は心底本物であったことでしょう。
 しかし、この思いには一つの曇った思いが入り込んでいます。それが母親の口を通して語られた、天へと上った後、神の右と左に座ることができるか、との問いなのです。神の右と左、とは神の国で神の次に地位が高い人が座る場所です。つまり二人は自分たちの働きに応じて、神の国での地位が与えられることを望んでいるのです。
 彼らの願いを聞き、他の十人は腹をたてた、とありますが、別にその理由を考えることは難しいことではありません。彼らの中にも、神の国と言う新しい王国で、ある程度の地位につきたいとの思いがあったと言うことです。すでに天の国で誰が偉いか、といった議論をしていたくらいですから、そんな思いはないと言い訳しようとなど、できるはずもありません。イエスが言われたことの行く末を見てみたい、自分はこのお方に従うと口では言いながら、お互いが牽制しあっているというのは、なんと滑稽なことでしょうか。だからこそ、イエスは静かに、しかし、しっかりと「それを決めるのは私ではなく父なる神のみである」と、自分はあなたたちと同じ立場にあり、仕える者であると教えられたのです。
 イエスは、神の子でありました。神の子なら、全ての人の先頭に立って、指揮を取るのではと思えます。しかし、そんな勝手なイメージとは正反対に、「偉くなりたい者は仕える者に、頭となりたい人は僕となりなさい」と語ります。この考えは何か他の人よりも何かを成し遂げたから、それに応じて何かを手に入れるわけではないこと、全ては平等に与えられることを再度教えているのです。
 人の子であるイエスも、他の人たちと同じ立場にも立つ者であったかもしれません。しかし、イエスは自分の命を身代金として払われることを一切惜しまず、他の人のために自分を最も低い身分に落とされました。それは、みなが平等である中でも、私はあえて他の人を支える最も低い場所に立とうとするゆえではなかったのでしょうか。
 その事実を知っているのならば、自分の立つ場所を上へ、上へと持ち上げようとする想いに従うのではなく、あえてイエスと同じ低いところに身を置いてみようではありませんか。きっと、その場所から見た世界は、何物にも変え難い美しさを放っていることでしょう。その本当の美しさは、全ての人が、低みに立ち、他の人を思いやって完成するはずです。そのためにも、まずは自らの身を、イエスが望んで自分を置かれた立場に置き、全ての人を支えようとする者でありたいと思うのです。
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2021年03月24日

3月14日 説教要旨

神の声を心に留める

2021年3月14日 受難節第4主日 (主の変容)
ペトロの手紙二 第1章16-19節 
マタイによる福音書 第17章1-8節
牧師 木谷 誠

 イエスという方がどれほどすごい方なのか?私たちはその全てを知ることはできません。しかし、イエスのすごさ、神の子としての栄光の一部が示された出来事がありました。それが今日の聖書の物語です。イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登りました。するとイエスの姿が光り輝き、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合い始めたというのです。モーセは、旧約聖書の一番大切な出来事である出エジプトのリーダであり、律法を伝えた人です。エリヤは旧約聖書の中で預言者の代表的な人物です。モーセとエリヤを合わせると「律法と預言者」となり、旧約聖書全体を表します。イエスはモーセ、エリヤが旧約聖書の時代に成し遂げた神の救いの御業を引き継ぎ、完成させる神の子、救い主です。その栄光の輝きが地上で一度だけ示されました。それがこの物語なのです。
 この出来事に接したペトロの言葉はどういう意味なのでしょうか?ペトロはどんな気持ちだったのでしょうか?なんとも言えない違和感を感じます。私はよく分からなくて悩みました。そして今回私はふとあることを思い出しました。それは演奏会やショーを見に行った時のことでした。なんて素晴らしいんだろう、なんて素敵な人たちなんだろう。また見たい、いつまでも見ていたい。私はそんな気持ちになりました。ペトロや弟子たちももしかしたら同じだったのではないでしょうか。おそらくペトロも、この光り輝く感動的な瞬間をまた何度も見たかったのでしょう。だからイエスとモーセとエリヤのために仮小屋を建てようと言ったのです。
 しかし、その願いは叶えられませんでした。光り輝く雲がイエスとモーセとエリヤを覆い、ただ「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」という声だけが聞こえました。そして神はイエスだけを残されました。神様の救いのご計画の中でモーセとエリヤはそれぞれの役割を果たしました。これからイエスが神様から与えられた役割を果たす番です。そのイエスの役割は、私たちの罪の赦しと神の子としての永遠の祝福を実現するために十字架にかかることです。神はイエスが残しました。それで十分なのです。栄光の神の子がその栄光の座から降りてきて、人の姿となり、私たちの救いのために十字架にかかることを決断なされた。この物語にはそのような重要な転機という意味があるのです。
 ところで、1990年くらいからアメリカの若者、スポーツ選手たちの間で、「WWJD」という文字の入ったリストバンドが流行りました。これは「What would Jesus do?」の略で「イエスならどうする」という意味です。このリストバンドは、自分の普段の生活のいろいろな場面で「イエスならどうするだろう?」と考えながら過ごすことを意味しています。このリストバンドは、自分の言葉、自分の行い、自分の思いがイエスに倣うものになっているだろうか、イエスに喜ばれるだろうか常に問いながら過ごしていくために作られたものです。「WWJD」はただのファッション、おしゃれではなく、自分の生き方をイエスに喜ばれるようにしたいという信仰の決意が表されています。
 「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」。受難節、私たちも思いを新たに「イエスならどうするだろう」という問いを常に持ち、生活の中の思いと言葉と行いを整え、「神の声を心に留めて」歩んで参りましょう。
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2021年03月17日

3月7日 説教要旨

自分を捨て、自分の十字架を背負う

2021年3月7日 受難節第3主日(受難の予告)
マタイによる福音書 第16章21-28節
牧師 木谷 誠

 本日与えられましたマタイによる福音書を初めて読んだ時、その前のマタイによる福音書第16章13節から20節までとの大きな落差に驚きました。マタイによる福音書第16章13節から20節において、ペトロはイエスのことを「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白します。これに対してイエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われ、最大級の褒め言葉を与えました。その後が本日の聖書です。そこでイエスがご自分の受難を予告するとペトロはイエスに向かって「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言って、押し止めようとしました。するとイエスはペトロに「サタンよ、引き下がれ」と言われたのです。少し前までは、ペトロのことを「教会の岩、基礎」と呼んでいたのに、今度はいきなり「サタン」。この落差はいったいどういうことなのでしょうか?それは人間は、自分の考え方や意志によって、教会の基礎にもなれるし、サタンすなわち悪魔にもなれるということです。人間はとても大きな選択の幅を持っています。そしてその選択によって、人間は天使にも悪魔にもなりうるのです。
 では私たちはどうしたら良いのか?イエスは言われます。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」と。「自分を捨て」とはどういうことでしょうか?イエスは、私たちに全財産、命までも捨てよというのでしょうか?それはとても難しい、不可能なことのようにも思われます。誰もイエスについていけなくなります。ではどうしたら?そのヒントは直前のペトロに向けたイエスの言葉にあります。それは「神のことを思わず、人間のことを思っている。」という言葉です。「自分を捨てる」とは「神のことを思うこと」です。「自分を捨てない」とは「神のことを思わず、人間のことを思うこと」なのです。常に神の御心を願い求めること、それが大切なこと、全てはそこから始まります。そして必要なものは全て備えられます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書第6章33節)にある通りです。
 次に「自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょうか?それはイエスに従い、イエスに倣って「神のことを思い」つつ歩む中で与えられる課題を誠実に担うことです。誰もイエスの十字架を背負うことはできません。他の人の十字架を背負うこともできません。それぞれがイエスに従い、イエスに倣う中で担う課題は違います。自分の十字架で良いのです。自分の十字架を背負って歩む時、そのそばにイエスがおられる体験をすることができるのです。
 以前、私は大失敗をしました。とてもとても落ち込みました。悪いのは私なのに、見苦しい自己弁護、不平、不満、反論など、汚いものが心の中からわいてきて祈れなくなりました。その時にイエスの「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」という言葉を聞いたのです。まさしく今の自分にぴったりでした。そしてイエスの言葉を自分に繰り返し言い聞かせていると不思議なことに心が鎮まり、平安が与えられました。本当に感謝でした。
 受難節の時、自分を捨てて(人間のことではなく、神のことを思い)イエスに従うことの意味を確かめつつ歩んで参りたいと思います。その歩みの中でイエスに会えることでしょう。
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2021年03月12日

2月28日 説教要旨

悔い改めへの招き

2021年2月28日 受難節第2主日
(悪と戦うキリスト)
マタイによる福音書 第12章22-32節
 牧師 木谷 誠


 受難節を過ごしています。典礼色は、悔い改めと悲しみを意味する紫です。悔い改めは神様の前で自分を振り返り、自分の罪深さを認めることです。それは痛いことです。辛いことです。でも、そんな辛い悔い改めの中で、私たちは神様のより豊かな恵みと愛をいただくことができるのです。今日与えられた聖書は私たちに悔い改めの大切さを伝えています。
 イエスが目が見えず、口のきけない人を癒されました。その時、その場にいた群衆は皆、イエスがダビデの子、すなわちメシアではないだろうかと言いました。これに対してファリサイ派の人々は「イエスは悪霊の力で悪霊を追い出している」と言いました。この違いは何なのでしょうか?
群衆は庶民です。普通の人々です。そんな群衆がイエスを素直に受け入れました。ファリサイ派の人々はそうではありませんでした。彼らは「立派な、偉い」人々です。聖書の知識もあり、聖書の戒めに従って「立派な」生活を送っていて、尊敬されている人々です。イエスはユダヤ教の体制側の人々、「えらい人々」を批判しました。イエスを受け入れたら、イエスをダビデの子すなわちメシアと認めたら、ファリサイ派の人々は変わらなければなりません。今、自分たちが持っている立場を捨てなければならなくなるかも知れません。彼らは、自分が今持っているもの、社会的にも尊敬され、安心して暮らしていける立場を失いたくなかったのです。彼らは変わりたくなかったのです。そんな人間の頑なさがここに表されているのではないでしょうか。そして彼らはそんな自分の立場を脅かすイエスを憎むのです。
 そして彼らはイエスが伝える神の御心よりも、今自分が持っている立場、自分の利益を大切にするようになったのです。そこに罪があります。そして彼らはイエスを十字架にかけて殺してしまいました。このように、頑なな心によって、大切なものを取り違えてしまう。そんな人間の罪のあり方は、イエスを受け入れず、十字架にかけて殺してしまいます。このファリサイ派の人々に見られる罪は私たちの問題でもあるのではないでしょうか?
 31節は何度読んでもドキッとします。赦されない罪があるというのです。これはどういうことでしょうか?神様は人間に意志の自由を与えました。人間には神に従う自由と神に従わない自由があります。いくら神様が愛と赦しを用意しておられても、それを人間が受け入れないならばそれは自分のものにはなりません。神の恵みも人が受け入れないならば、その人に豊かに働くことはできません。赦されない罪、それは神の愛と恵み、罪のゆるしを受け入れないことです、心を閉ざして、拒み続けることなのです。
 毎日の生活の中で、私たちは何を一番大切にしているでしょうか?神様の御心に従うことでしょうか?自分の利益、自分の都合でしょうか?私たちは神様の御心を忘れて、自分の都合の良いことばかりを選んでいることはないでしょうか?今日の聖書はそのことを私たちに問うています。私たちは自分を振り返り、もしも神様よりも自分の都合を大切にするような罪に陥っているならば悔い改めましょう。自分の利益や都合よりも神様の御心を大切にするように努力しましょう。そうできるように聖霊の助けを祈り求めましょう。
 この受難節の時期、ファリサイ派の人々に現れている罪のあり方を自分の問題として受け止め、悔い改めを新たにして、イエスを受け入れ、イエスに従って歩んで参りましょう。
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