2021年12月02日

11月21日 説教要旨

神は私たちのために

2021年11月21日 降誕前第5主日・
収穫感謝日・謝恩日 (王の職務)
テモテへの手紙一 第1章12-17節
伝道師 𠮷川庸介

 信仰を知るには何がきっかけとなるかと言われたとき、様々な理由があるでしょうが、やはり信仰者の生き様こそが人を動かすことでしょう。パウロがイエスこそキリストであるとの信仰を伝えるその姿を見た人々は、この人はキリスト者としてのあり方を体現している方であると思ったに違いありません。しかし、パウロはそんな抱かれたであろう想いとは逆に、己こそ最も罪深く、罪人のかしらであるとまで言い切るのです。
我々が本日読むこの手紙は、エフェソという街にて宣教にあたっていたテモテへと向けられた手紙です。このエフェソの街は一筋縄でいかない街であったようであり、はっきりと信仰を持つと口にした者たちが、別のものに心奪われ、そちらをより素晴らしいのだと考えるようになっていたそうです。このような事柄を聞くと、人というものは不義、不信、不忠といったものが根付いた存在であると思わされます。しかし、パウロはそうした人をふるいにかけるようにして落としなさいというわけではなく、逆にそのような人たちにこそキリストの信仰を伝えるべきであると強く語るのです。
 パウロ自身は、キリスト者の群れを荒らす狼のかしらのような存在であり、人の殺害にまで関与する極悪人でもありました。そのように、かつて悪虐を尽くした者を神がゆるし、自分の業を伝えるために取り上げもしたというところに神の懐の深さを見ます。我々が自分たちを迫害するほどの人を目の前にするならば、私たちはどんな顔を、態度を表すでありましょうか。おそらく、これを、笑顔でゆるすこと、あるいは飲み込もうとすることは不可能に近いものでしょう。しかし、罪人のかしらとなろうが、変わらずに憐れみを与え、あまつさえ自分を証することをゆるす方がいることを自覚したならば、どうしてその方を伝えないでいることができるでしょうか。パウロはまさに、それを自覚し知ったからこそ、それまでの自分を捨て去り、新たに生きることを選んだのです。そのあり方は、厚顔無恥と言われ罵られもしたでしょう。事実、使徒として歩みを始めようとするとき、彼はイエスの殺害を間近で見ていた弟子たちに疑いの目を向けられていました。しかし、それを向けられてなお、彼は手紙の中で感謝を言うのです。しかもそれは、ただ感謝を述べている言葉ではなく、最上級の感謝の言葉でありました。まさに罪人のかしらであるほどの自分を、神は自分の力を見せて罰するのではなく自分の懐へと入れてくださった。さらには自分に忠実な者としてキリストを伝えるという大きな役割を与えてくださった。これに感謝せずにどうしていられようか、というのです。
 キリスト教信仰の最も根幹たるのは、ここであるに違いありません。神は、私たちが不完全な者から完全な者へとなることができたから、私を愛して役割を与えてくださったわけではないのです。自分がどれほどに罪を持ち、どれほどに欠けたる器であるかを自覚し苦しむ人をも、神は自分の懐へと招き入れてくださるのです。そこにあるのは、出来の良い子だけに目をかけようとする愛ではなく、どんなでもあろうと変わらぬ愛を注ぐという姿そのものが見られるのです。最後に彼がいう「永遠の王よ、不滅で目に見えない唯一の神よ、あなたにこそ誉と栄光が永遠にあるように」これぞまさにパウロの溢れ出る神の愛への感謝と信仰の表れであります。彼の言葉は、私たちのために神は何をしてくださったのかということを、力強く教えているのです。
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2021年11月23日

11月14日 説教要旨

救いの神

2021年11月14日 降誕前第6主日・
障がい者週間 (救いの約束 モーセ)
出エジプト記第6章2-13節
牧師 木谷 誠

 今、教会の暦では「降誕前」の季節を過ごしています。11月21日までが降誕前、11月28日からが本格的なクリスマスへの準備期間(アドヴェント)となります。この降誕前の季節のキーワードは、「契約(約束)」です。全ての始まりとしての天地創造、そして人の罪、そしてその罪から救うための約束(契約)としてアブラハム、モーセ、ダビデと物語は続いていきます。その約束の成就としてイエス・キリストの誕生、クリスマスの祝いとなるのです。
 さて、私の恩師の一人である野本真也先生が10月10日に天に召されました。野本先生には、大変お世話になりました。その野本先生がよくお使いになった例えというかエピソードに「キウイの喩え」があります。キウイ、あのフルーツのキウイです。どのような例えかと言いますと、野本先生が、昔、当時はとても珍しかったキウイを京都の錦小路の果物屋さんから買ってこられたのだそうです。そのキウイを息子さんに見せました。すると先生の息子さんはまず「わあ、ジャガイモみたいだ」と言いました。次に野本先生がキウイを切って、その中身を見せました。すると息子さんは「わあ、ゼリーみたいだ」と言いました。それから実際に食べてみると「わあ、いちごみたいだ」と言われたのだそうです。同じキウイが関わり方によって、ジャガイモのように見えたり、ゼリーのように見えたり、イチゴのような味がしたりします。同じキウイでも関わり方によって違う経験になるのです。私は、アドヴェント前に、アブラハム、モーセ、ダビデと続いていく聖書の流れを見て、このキウイの例えを思い出しました。アブラハム、モーセ、ダビデが出会った神様、同じ神様です。でもアブラハム、モーセ、ダビデは関わり方によって、神様の違った一面を経験してきました。11月21日まで、私たちはアブラハムが出会った神、経験した神、モーセが経験した神、出会った神、ダビデが経験した神、ダビデが出会った神(この週は夕礼拝ですが)、それぞれの物語のメッセージを分かち合いたいと思います。
 今日の聖書はアブラム(アブラハム)、アブラハムが出会った神、アブラハムが経験した神の物語です。アブラハムの物語は、神の約束を信じたアブラハムの信仰という面に注目して語られることが多いです。しかし、今日の聖書はむしろその逆、アブラハムに向き合った神とはどのような方であるか。このアブラハムの物語の第一の特徴は、神はアブラム(アブラハム)に呼びかける神であるということです。アブラハムが神を見つけたのではなく、神がアブラハムを見つけ、呼びかけて物語は始まります。聖書が告げる神はそのような呼びかける神なのです。ここにおいでの皆様も、ご自分の意思で教会に来られ、続けておられるのだと思います。しかし、その前に神が皆様を見つけ、呼びかけているのです。
 では、神は何をアブラハムに呼びかけたのでしょうか?それは新しい人生の旅の始まり、神と共に歩む新しい旅、そして祝福の約束です。そしてその実現のために神は生き生きとアブラハムに働きかけます。何の変哲もない一人の人間、しかも年老いて新しい可能性を見出しづらいアブラハムに神は生き生きと呼びかけ、祝福を約束されるのです。その約束は途方もない約束でした。年老いたアブラハムがたくさんの子孫を与えられるというのです。普通に考えればあり得ないことです。この神の約束は人間の経験や知識を超えています。
 教会でも世間一般でも、高齢化のこと危惧されています。しかし、今日聖書が伝えるアブラハムの物語、アブラハムが出会った神は、高齢者に呼びかけ、人間の知識や経験を超えた、新しい旅へと招く方です。そしてそれを実現してくださる方です。高齢化社会にあって、私たちの希望は、この神にあります。
 そしてこの神は約束を守る方です。私が高校生の頃、近くの教会の若い牧師さんが情熱を込めてこう言ってくださいました。「私たちが約束を破っても、神は決して約束を破ることはないんだ。」と。アブラハムでも神への信頼を見失い、約束を破ったこともありました。相手が約束を破ったなら、もう約束を守る義務はないはずです。しかし、神はアブラハムを見捨てることなく、約束を守り続けられました。そのように神は約束を守り、その約束の責任を取る方なのです。神は、信じて従う人間に対して約束を守り、責任を取られます。私たちもこの神を信頼し、希望を人生の旅路を歩み続けていきたいと思います。
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2021年11月16日

11月7日 説教要旨

あなたに呼びかける神

2021年11月7日 降誕前第7主日・聖徒の日
(神の民の選び アブラハム)創世記第15章1-18a節
 
牧師 木谷 誠

 クリスマスに向けて旧約聖書を中心に、天地創造、罪への堕落、アブラハム、モーセ、ダビデと神の約束(契約)の歴史をたどります。そこからアドヴェント、キリストの誕生の物語へとつながります。そして12月25日のクリスマスのお祝いを迎えます。
 私が、牧師(厳密には伝道師)になりたての頃、ある青年が、カインとアベルの物語について、「あのお話、悲しいですね」と言ったことが印象に残っています。すごいなあと思いました。なぜならその当時の私は、カインとアベル物語は大嫌いでしたから。この物語も、兄ではなく、弟が選ばれます。そして私は兄でしたから、面白くありませんでした。そして兄弟殺しなどという恐ろしい結果になってしまうことに戸惑ってしまって、よくわからなかったのです。その悲しみとは何でしょうか?それは愛の破れが生み出す兄弟殺しという悲劇だと思います。神に見てもらえない悔しさ、憤りから、血を分けた弟の命を奪ってしまったカイン。人類史上最初の殺人事件は、兄弟殺しであったとは驚いてしまいます。しかし、現実に今でも殺人事件はその半数以上が肉親の間で起こっている事実もあります。そう考えますと何だかやりきれない思いがいたします。
 愛の破れ、それはまず神とカインの間で起こりました。神は、弟アベルの捧げ物に目を止め、カインの捧げ物に目を止められませんでした。なぜなのでしょうか?弟アベルの捧げ物は、捧げ物の形式にかなっていて、カインのはそうでなかったという説があります。形式にこだわる必要はないのではとも思いますが、形式を守ることの中にアベルの信仰が表されていて、カインはその形式を軽んじた。故に信仰のこもった捧げ物になっていなかったのかも知れません。また、神の選びは多くの場合、強さよりも弱さへと向かいます。強い者、豊かな者はそれを受け入れて、弱い者と共に生きなければならない。それが神の御心です。人はそれに従わなければなりません。しかし、それは簡単なことではないのです。実際にカインは従うことができませんでした。
 さらに重要なことは、カインは自分の捧げ物に神が目を止めてくださらないことを激しく憤ったということです。神に見てもらえない中で、神に愛してもらえない。とカインは感じたのでしょう。ここに至って、捧げ物の問題は、愛の問題になりました。神から愛して欲しいのに、神は兄である自分ではなく、弟を選んだ。その愛の破れは、「顔を伏せる」というカインの反応に現れています。彼は、神に対して憤り、神を見失ってしまっていたのです。そのようにして神を見失ったカインは罪に囚われてしまいました。罪は「的外れ(まとはずれ)」という言葉に近く、神という最も重要な「的」を外してしまったカインは、神との交わりから離れてしまいました。そして神との交わりが破れたカインは、人との交わりにも破れていくのです。彼は最も近い関係にある弟アベルを殺害してしまいました。アベルのことを尋ねる神に対して、カインは平気で嘘をつきます。罪を認めず、隠そうとして、嘘をつく。そのようにして罪に罪を重ねていく。これも人間の悲しい罪業です。
 しかし、神は全てをご存知であり、欺くことはできません。カインは、土を耕し、豊かな実りを受ける生活を奪われ、さすらいの生活をすることとなりました。神の厳しい罰です。カインが犯してしまった罪の故ですから、その結果と責任はカイン自身が負うことは当然です。いわゆる「自己責任」です。でもカインは負いきれないのです。このままだと負いきれずに死んでしまうのです。そう訴えるカインに対して、神は憐れみをもって、その身を守ることを約束しました。ここにこの悲しい物語の希望があります。
 この物語はその前の第3章と共に人間の罪の現実をえぐり出します。神を信頼しきれず、見失い、人を憎み、妬み、傷つけ、負いきれない罪を犯してしまい、その結果に責任を取れない人間、その悲しい罪の現実。人間の罪の現実ってそういうものではないでしょうか。そのような愚かで罪深い人間を神は憐んで下さるのです。悲しい罪の物語の希望がそこにあります。神は正しい者だけの神ではありません。悪い者の神でもあるのです。
その鍵は自分のありのままを神に訴えかけるカインの姿勢です。正直に神に向かい合い、憐れみを求める時、罪深い者に対しても神は憐れみを示してくださるのです。
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2021年11月10日

10月31日 説教要旨

悲しい罪の物語

2021年10月31日 降誕前第8主日(堕落)
創世記第4章1-16節 
牧師 木谷 誠

 クリスマスに向けて旧約聖書を中心に、天地創造、罪への堕落、アブラハム、モーセ、ダビデと神の約束(契約)の歴史をたどります。そこからアドヴェント、キリストの誕生の物語へとつながります。そして12月25日のクリスマスのお祝いを迎えます。
 私が、牧師(厳密には伝道師)になりたての頃、ある青年が、カインとアベルの物語について、「あのお話、悲しいですね」と言ったことが印象に残っています。すごいなあと思いました。なぜならその当時の私は、カインとアベル物語は大嫌いでしたから。この物語も、兄ではなく、弟が選ばれます。そして私は兄でしたから、面白くありませんでした。そして兄弟殺しなどという恐ろしい結果になってしまうことに戸惑ってしまって、よくわからなかったのです。その悲しみとは何でしょうか?それは愛の破れが生み出す兄弟殺しという悲劇だと思います。神に見てもらえない悔しさ、憤りから、血を分けた弟の命を奪ってしまったカイン。人類史上最初の殺人事件は、兄弟殺しであったとは驚いてしまいます。しかし、現実は今でも殺人事件はその半数以上が肉親の間で起こっている事実もあります。そう考えますと何だかやりきれない思いがいたします。
 愛の破れ、それはまず神とカインの間で起こりました。神は、弟アベルの捧げ物に目を止め、カインの捧げ物に目を止められませんでした。なぜなのでしょうか?弟アベルの捧げ物は、捧げ物の形式にかなっていて、カインのはそうでなかったという説があります。形式にこだわる必要はないのではとも思いますが、形式を守ることの中にアベルの信仰が表されていて、カインはその形式を軽んじた。故に信仰のこもった捧げ物になっていなかったのかも知れません。また、神の選びは多くの場合、強さよりも弱さへと向かいます。強い者、豊かな者はそれを受け入れて、弱い者と共に生きなければならない。それが神の御心です。人はそれに従わなければなりません。しかし、それは簡単なことではないのです。実際にカインは従うことができませんでした。
 さらに重要なことは、カインは自分の捧げ物に神が目を止めてくださらないことを激しく憤ったということです。神に見てもらえない中で、神に愛してもらえない。とカインは感じたのでしょう。ここに至って、捧げ物の問題は、愛の問題になりました。神から愛して欲しいのに、神は兄である自分ではなく、弟を選んだ。その愛の破れは、「顔を伏せる」というカインの反応に現れています。彼は、神に対して憤り、神を見失ってしまっていたのです。そのようにして神を見失ったカインは罪に囚われてしまいました。罪は「的外れ(まとはずれ)」という言葉に近く、神という最も重要な「的」を外してしまったカインは、神との交わりから離れてしまいました。そして神との交わりが破れたカインは、人との交わりにも破れていくのです。彼は最も近い関係にある弟アベルを殺害してしまいました。アベルのことを尋ねる神に対して、カインは平気で嘘をつきます。罪を認めず、隠そうとして、嘘をつく。そのようにして罪に罪を重ねていく。これも人間の悲しい罪業です。
 しかし、神は全てをご存知であり、欺くことはできません。カインは、土を耕し、豊かな実りを受ける生活を奪われ、さすらいの生活をすることとなりました。神の厳しい罰です。カインが犯してしまった罪の故ですから、その結果と責任はカイン自身が負うことは当然です。いわゆる「自己責任」です。でもカインは負いきれないのです。このままだと負いきれずに死んでしまうのです。そう訴えるカインに対して、神は憐れみをもって、その身を守ることを約束しました。ここにこの悲しい物語の希望があります。
 この物語はその前の第3章と共に人間の罪の現実をえぐり出します。神を信頼しきれず、見失い、人を憎み、妬み、傷つけ、負いきれない罪を犯してしまい、その結果に責任を取れない人間、その悲しい罪の現実。人間の罪の現実ってそういうものではないでしょうか。そのような愚かで罪深い人間を神は憐んで下さるのです。悲しい罪の物語の希望がそこにあります。神は正しい者だけの神ではありません。悪い者の神でもあるのです。
その鍵は自分のありのままを神に訴えかけるカインの姿勢です。正直に神に向かい合い、憐れみを求める時、罪深い者に対しても神は憐れみを示してくださるのです。
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10月24日 説教要旨

時がある

2021年10月24日 降誕前第9主日・
分区講壇交換(創造)
コヘレトの言葉第3章1-8節
牧師 古谷 健司

 8年前、東日本大震災の被災地で姜尚中(カン・サンジュン)氏の講演を聞いた。「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと神はこの両者を併せ造られた、と。」(7:14)
 3/11は第二の8/15になるはずだった。人が自らの傲慢さに気づき、共に生きる世界を取り戻し始める日となるはずだった。
「貧しくても利口な少年の方が 老いて愚かにになり 忠告をいれなくなった王よりも良い。」(4:13)心を柔らかにし、幼子の笑みに癒される術(すべ)を再び手にしよう。
 「すべては空しい。」(1:2)先のことは分からないからこそ今の命を大切にしよう。災害の最も激しい時期を迎えたことを子どもたちにも伝え、そのことに向き合おう。支え合う力、愛こそが私たちの最後の力なのだから。
 閉会礼拝は私の担当。「姜さん、すべてのわざには時がある(3:1口語訳)んですよ」。姜氏を信仰へと導いた土門一雄牧師の言葉を紹介した。私はその土門先生の「いい教会だよ。行きなさい。」の一言で四国の教会に赴任した。全ては繫がり、全てに時、御神の配慮がある。
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