2021年03月01日

2月21日 説教要旨

誘惑の上に立ちなさい

2021年2月21日 受難節第1主日 (荒野の誘惑)
マタイによる福音書 第4章1-11節
伝道師 𠮷川庸介

 イエスが荒野であらゆる誘惑を退けたこの物語は、イエスの神へ従う姿や神との関係のあるべき姿を教えている、といった言葉を耳にします。誘惑の言葉をかける悪魔に対し、イエスが返す「神のみ言葉によって生きる」や「神を試すな」といった言葉が重要ということでしょう。
 しかし、いつも私たちが耳を傾けてしまうのは、悪魔がイエスにかけた言葉であり、それに感情を左右されることが多くはないでしょうか。40日間、空腹を耐えたイエスにかけられた、石をパンに変えてみせよ、飛び降りて天使に支えられよとの言葉は、神から最初に与えられた力を使って自分を満たしてみせよ、という意味を持っています。その行き着くところは、神の言葉を信じることは当たり前だと口にしても、心の底から信じきれておらず、むしろ欲望を肯定するかのような悪魔の誘惑を受ければ、口にした言葉が簡単に崩れ去るという事実ではないでしょうか。
 神はイエスを聖霊の力によって悪魔からの誘惑に晒されるために荒野へと送り出しました。荒野でのイエスは腹をすかせたとあり、私たちと同じく食料を必要とする肉体を持っていることが証されます。私たちに救いを、愛をもたらすはずの神の子なるお方が、私たち人間と同じ肉体を持っていたという事実は、よく耳にする私たちと共に苦しみを負う覚悟を持って、私たちのところに来てくださった、といった言葉を思い浮かべます。しかし、本当に私たちと同じ肉体を持ち、欲望を持っていたのならば、どうして肉体と同じく持ち得ていた神の力を使うことで、肉体を苦しみから解放しなかったのか、という疑問が残ります。
 悪魔は「神の子ならば」という言葉を2度繰り返しております。これは、十字架につけられ、死を待つだけであったイエスに「神の子ならば自分を救ってみよ」と罵った時にかけられた言葉と同じです。これを読むと、私たちと同じであれば、なぜ私たちであれば当たり前のように使うであろう苦しみから解放される力を使わないかとも思えます。しかし、最後にイエスは全ての誘惑を断ち切り、主に従うことのみが最も大切であると語られました。それをイエスだからできたのであると言われるやもしれません。あるいは、神の子であるのだから私たちとは違う強さを持っていたのだ、最後には神の子でありながらイエスは十字架にかけられ、死を選ぶことによって、私たちの罪を全て負ってくださったのだ、といった言葉が付け足されるやもしれません。
 しかしこの言葉は、「自分は神によって救われるのだから弱くてよい」との想いに代わり、最後には「自分の欲望に従う、思うがままの自分でよい」といった言葉となり、悪魔の誘惑となり私たちへと語りかけられます。
 そんなときに「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」との言葉を思い返したいものです。イエスは、私たちと同じ肉体、欲求を持っていたにもかかわらず、その苦しみを神の力を用いて乗り越えることを選ばず、誘惑と闘われて勝利されました。もし、人の子として肉体を持っていたイエスが、神の力を使うことで苦しみを乗り切ったのならば、神の力を持たない罪人は、どう足掻いても苦しみを追い続けなければならないという証明にしかなりません。だからこそ、神の力を使わずして、耐え切られたのであります。
 そこにはあまりにも厳しい態度を見てしまうかもしれません。しかし、その裏にあるのは、人は必ずや誘惑を乗り越えることができるはずだと、人をどこまでも信じて愛してくださる姿なのです。私たちが誘惑に弱いことを、神に従いきれないことをご存知であり、赦しをあたえる証として、十字架に自らの体を捧げてくださいました。けれども、その事実と同じくらい、私たちに同じ肉体をもって苦しんだ私と同じことをなすよう努めなさいと、信頼の眼差しを向けてくださるイエスを、私たちは確かに見ることでしょう。いついかなる時も、この事実を見据えたいものです。
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2021年02月23日

2月14日 説教要旨

ブレてもいいから歩き続けて

2021年2月14日 降誕節第8主日(奇跡を行うキリスト)
マタイによる福音書 第14章22-33節
牧師 木谷 誠

 五千人(女性と子どもを別にして)に食事を与えた後、イエスは弟子たちを強いて先に行かせました。なぜでしょうか?祈るためです。なぜイエスは祈ったのでしょうか?祈りは神様と交わることです。神様に語りかけ、神様に聞くことです。イエスにとってそのような祈りはまさしく命の養いでした。イエスは神様との交わりの中で新しい力をいただいていたのです。私たちも祈ることによって神様と交わることができます。これもイエスのおかげです。祈りは命の養い、慰め、力なのです。
 そのようにしてイエスが祈っている間、弟子たちは湖の向こう岸に渡ろうとしていました。しかし、風が逆風で船が進まず、波が荒れて、困っていました。そこにイエスが水の上を歩いてやってきたのです。弟子たちは驚き、幽霊かと思って恐れました。情けない話です。でも人間の弱さはこんなものなのかもしれません。弟子たちは疲れていたことでしょう。弟子たちは風と波に悩まされ、心乱れていたことでしょう。そんな疲れ切って乱れた心では、イエスのことを幽霊と思ってしまうのです。
もっとも頼りになる方、助けになる方を見間違えてしまい、拒んでしまうのです。いわば心がブレた状態、それも相当ひどい「ブレブレ」の状態です。イエスとは正反対です。イエスは疲れ切った中でも祈りを忘れませんでした。そこから新しい力をいただいていました。弟子たちは祈りを忘れ、目の前の嵐の現実に心乱れ、神様を見失ってしまっていたのです。そのような弟子たちに対してイエスは「安心しなさい。私だ。」と優しく呼びかけてくださいます。祈りを忘れ、神様を見失い、一番頼りになる人を拒んでしまう。そのような愚かで弱くブレてしまう弟子たち。弟子たちの姿は私たちにも重なるのではないでしょうか?イエスはそのような弟子たちの、私たちの弱さ、愚かさ、「ブレブレ」の状態をご存知です。そしてイエスは私たちを憐んでくださり、温かい愛を注いでくださいます。イエスは水の上を歩いてでも助けに来てくださるのです。ペトロは、イエスの助けを喜び、イエスの声に従って水の上を歩きました。しかし、ペトロは途中で強い風に心乱され、溺れかけてしまいました。ペトロもブレてしまいました。一番弟子のペトロでさえも他の弟子や私たちと大差ありません。イエスはそれら全てをご存知で、寄り添い、しっかりと手を伸ばして捕まえてくださいます。このイエスこそ、神の子、私たちの導き手「真の羊飼い」なのです。
 私たちにできること、必要な身支度は祈りです。それからもう一つあります。私たちはここでペトロのことを考えてみましょう。この時、ペテロは途中まではイエスをしっかりとみていました。でも強い風や高い波のためにペテロは心が乱れて、イエスが見えなくなりました。するとペトロはたちまち沈みそうになりました。これが人間の罪です。私たちの弱さです。罪は「的外れ」ということもできます。私たちの心がイエスという的をしっかりと捉えていれば大丈夫、沈みません。でも強い風や高い波が気になって、そっちに心が向いてしまうと心がイエスというマトから外れてしまいます。すると私たちは沈んでしまうのです。このような罪と弱さを私たちは持っています。大切なことはそんな沈みそうになっている時にイエスがそばにいてくださることに気づくことです。そしてイエスの手を握ることです。それが信仰です。私たちの人生にも様々な事件があります。その事件のために私たちは、心乱れ、恐れ慄きます。そしてイエスを忘れてしまい、ブレてしまいます。そんな時、祈りましょう。神様を呼びましょう。イエスを呼びましょう。「主よ、助けてください」と叫びましょう。その時、私たちはイエスがそばにいて手を伸ばして私たちを捕まえてくださっていることに気づくことができるのです。そこに私たちに手を伸ばし、しっかりと掴んでくださる「本当の神の子」イエスがおられるのです。ブレても良いから、もういちど祈りましょう。イエスの方を向いて、イエスに心を向けて、イエスに呼びかけて、歩き続けましょう。イエスはあなたに寄り添い、しっかりと捕まえてくださっているのです。イエスはあなたと共におられます。
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2021年02月16日

2月7日 説教要旨

癒しへの招き

2021年2月7日 降誕節第7主日(いやすキリスト)
マタイによる福音書 第15章29-31節
牧師 木谷 誠

 聖書には癒しの物語が出てきます。ここでの癒しは、気分が良くなったとか、疲れが取れたとかいうものではなく、病気が治ったとか、目の見えない人が見えるようになったとか、体の不自由な人の体が動くようになったという出来事です。これらは普通では非常に信じにくい出来事です。聖書に出てくる癒しの物語は、読む人にとって、大きな障害になることがあります。私たちはこのような物語をどう受け止めたら良いのでしょうか?教会の中にはいろいろな立場があります。私は、素朴にそのまま信じます。神様はこの時にはそのような不思議な出来事が必要とお考えになった。だからこのような癒しの奇跡が起きたのだと信じます。なぜかというと、教会に通い、聖書の言葉を聴いて、信仰生活を続けているうちにたくさんの神様のお恵みをいただきました。何度も助けていただきました。素晴らしい出会いをいただきました。そのようにたくさんの神様のお恵みをいただいているうちに聖書に書いてあることはそのまま信じたら良いと思うようになりました。今では同じことは起こりません。しかし、今の時代には、今の時代にふさわしい形で神様は私たちにお恵みをくださり、素晴らしい癒しの出来事を起こしてくださっています。
 この物語の始まり、イエスは山におられました。イエスは祈っていたのです。祈りは神様とお話しすること、神様に聴くことです。イエスはそのようにして神様と交わっていました。そこにイエスの癒しの力がありました。イエスは山で祈った後、多くの痛み、苦しみを抱える人々と出会いました。イエスは祈る中で、そのような人々に神様の愛を伝える準備をしておられたのです。神様は日々の生活の中で苦しみ、痛みを抱えて生きている人を愛し、寄り添い、慰め、励まし、癒してくださる。そのような神様の愛を伝えるために、癒された人々が喜びに満たされて神様を賛美することができようになるためにイエスは多くの人々を癒されたのです。
 今もイエスは痛み苦しむ人と共におられます。そして神様の愛を注いでくださいます。もちろん私たちにもです。聖書の言葉に聞き、祈る中で、私たちはその恵みに気づくことができます。そしてイエスに癒された者として、この恵を分かち合う者として、痛み苦しむ人と出会い、イエスの癒しへと招くことが求められます。この物語を読むたびに「わたしは誰かと出会っているだろうか?」、と反省させられます。今治の町にも、痛み苦しむ人、イエスの癒しを必要としている人がたくさんおられるはずなのに、本当に真剣に出会っているだろうか?何が足りないのか?それは祈りが足りないから、大切な出会いに気づくことができないのだと思います。
 わたしたちが、悩み苦しむ人、痛みを抱える人を訪ね、共に祈る時、そこに神様は素晴らしい出来事を起こしてくださいます。イエスの時代のようにたちまち癒されるということはないかも知れませんが、慰め励まされ、新しい歩みへと導かれます。そして喜びに満たされて、共に神様を賛美することができます。そのようにして癒され、その癒しの喜びを分かち合う者として今治の街に歩み出しましょう。
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2021年02月08日

1月31日 説教要旨

心を鍛える

2021年1月31日
降誕節第6主日(教えるキリスト)
テモテへの手紙一 第4章7b-16節
牧師 木谷 誠

 本日、皆様と分かち合う聖書の言葉はテモテへの手紙です。私はテモテへの手紙が大好きです。大学院一年生の時、秋田に夏期伝道に行きました。祈祷会はフィリピの信徒への手紙で行いました。その時に、教会の方が「テモテへの手紙もいいですねえ」と言われて、テモテへの手紙に興味を持ちました。。そしてとても励まされたのでした。教会に着任して初めての説教はテモテへの手紙二第2章8節と決めていたくらいです。初めて教会に着任したのは24歳の時、教区の教職では一番若く、夏期伝道の学生の方が年上だったくらいでした。教会の方は、私が若いので、「テモテ先生」などと言って迎えてくださいました。嬉しい気持ち半分、畏れ多い気持ち半分でした。それから37年、今でもテモテへの手紙は大好きです。
 さて、ここでは「信心」という言葉が出てきます。この「信心」という言葉は、聖書の中ではあまり使われていませんが、なぜかテモテへの手紙には多く使われています。この「信心」という言葉は、一般的には「自分の心のあり方」という意味で使われます。これに対して「信仰」は「神と向かい合う姿勢」という意味で、信心よりも神との関わりを大切にしていて、より重要な意味を持っているとされています。
 しかし、テモテへの手紙で用いられている「信心」という言葉は、一般的な「信心」よりも、もう少し大切な意味があります。「神様と向き合った時の自分の心のあり方」とでも言えましょうか。自分の日々の心のあり方を、神様の御心に照らして吟味しなさいという意味で「信心」という言葉が用いられています。心のあり方は目に見えません。でも体を動かすのは心です。行動も大切です。「信心のために自分を鍛えなさい。」という今日の聖書の言葉は、言葉も大切ですが、その根本にある心のあり方が神様に喜ばれるものとなっているかどうかを常に丁寧に調べなさいと勧めているのです。これは体の鍛錬よりも大切です。そのような自分の心のあり方を神様の御心に照らして丁寧に調べる時、何が神様に喜ばれる正しいことであるのか、その基準を持っているかはとても大切です。それは聖書の言葉と祈りです。自分の知識や経験に頼ることは、独善に流れてしまします。人の目や評価ばかりを気にしていてもいけません。どちらも神様を忘れておかしな方向に行ってしまいます。常に聖書の言葉に聴き、祈ることによって、私たちは神様との交わりの中で自分の心のあり方を常に正しい方向に持っていくことができるのです。私たちが聖書を読み、祈ることによって、神様は聖霊という目に見えない力、導きをくださり、私たちを正しく導いてくださいます。だから「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。」と勧めているのです。これによって「信心」すなわちここでは「神様と向かい合う心のあり方」を正しく保ち、よりよく育てることができるのです。より本質的には、神様によって、より良い者へと育てていただくことができるでしょう。
 私たちも日々の生活の中で、目に見える行い、耳に聞こえる言葉はとても大切です。でもその根っこにある心のあり方はもっと大切です。聖書の言葉に聴き、祈ることによって、神様との交わりを生き、より神様に喜ばれる者へと育てていただきましょう。
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2021年01月31日

1月24日 説教要旨

天の国はすぐそこに

2021年1月24日 降誕節第5主日(宣教の開始)
イザヤ書 第8章23節b-9章3節
 マタイによる福音書 第4章12-17節
伝道師 𠮷川 庸介

 「悔い改めよ、天の国は近づいた」は、あまりにも有名な言葉でありますが、いざ説明せよと言われ色々と考え始めると、さまざまな難しい問いが生じます。
 この「悔い改めよ」と言う言葉を投げかけられた人々とは、かつて大国に征服され、アイデンティティーを破壊された人々であります。イザヤ書に辱めを受けたとありますが、上記の苦しみを受けることを指し、この上ない辱めだと言っているのです。彼らはその屈辱から数百年の時を経て、再びユダヤの同胞として迎え入れられましたが、かつて征服された場所に住んでいたという理由だけで、まるで見知らぬモノのように扱われたのであります。暗闇、死の陰との言葉でありますが、これは人が住むような場所ではない-すなわちそこに住む人は人ではない-という侮蔑の意味をこめて呼ばれているのです。
 このようなことを、ただ遠い昔の出来事というわけにはいきません。身近な例を挙げるなら、例を見ない新型感染症について言えるでしょう。好き好んでこの状況に陥ったわけでもないのに、その地域に住んでいたと言うだけで監視をされる日々を送ることとなり、一度感染すれば不快感を持たれ、満足に日常を送れない人々の姿を見るからです。好き好んでなったわけでないにもかかわらず、気がつけば苦境に陥ることを、神が与えた試練なのかと、かえって無気力と絶望を感じる彼らと、今を生きる私たちとは重なるのです。
そのような、一切の希望も慰めも感じられぬ人々に光が差し込んだとあります。この一言を聞き、あぁ、ようやく救いがもたらされたのだと思いそうですが、実際のところ何が言いたいのかと思われたに違いありません。そもそも、悔い改めろとありますが、既に苦しみを受けた者が、さらに反省が足りないとか、至らなかったと言わなくてはならないのでしょうか。
 今一度悔い改めよとの言葉を見てみます。実はこの言葉のもっとも根幹にあるのは、「お前の心のうちを変えなさい」との意味です。ただ己の生き方が至らないのだと考えたりするだけであれば、私たちはなんとでもできてしまうのです。そのようなものは、自分が持つ肩書きや、自分が譲ることができないプライドなどを前にした時、簡単に放棄されてしまうものにすぎないのです。
 悔い改めよとは、お前たちは、自分を取るに足りないと言われそのように思っているかもしれないが、それは人が決めたものを基準としているのであり、そうではなく神である自分を見つめるように心を変えよ、と言っているのです。この言葉は時を越え、私たちに向かっても投げかけられているのです。この心を、私たち全員が持つことを求め、イエスは宣教のはじまりの言葉として発されたのであります。
 ルカによる福音書でイエスは「神の国はあなたがたの間にある」と語りますが、この言葉が叶った時、肩書きだとかそんなものは一切が捨てられ、ただ喜びを知った私たちが共に肩を並べ、救いを与えてくださったイエスの弟子として、ただその光り輝く姿を追いかける私たちの姿があるのではないでしょうか。そしてその時にすぐそこ、すなわち私たちの間にある天の国へと入ることができるのです。
 悔い改めよ、天の国は近づいた。できないと思った時、暗闇の中を彷徨うことになった時、それでもなお、目の前で光を放ち、じっとその場で待ち続けておられる方がおられます。そのお方、すなわちイエスの一片に触れ、天の国へと招き入れられるその喜びを、ともに分かち合い、生きてまいりたいと思います。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 21:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする