奉仕の豊かさ
2022年10月2日 聖霊降臨節第18主日・
世界聖餐日・世界宣教の日(キリストに贖われた共同体)
コリントの信徒への手紙一第12章1-11節
牧師 木谷 誠
先週、今週、来週と信仰入門講座「奉仕 恵みに応えて」というテーマと連動してお伝えいたします。2回目の本日は奉仕の豊かさについてです。
今日の聖書を読んでいて、私は「自分の認識が逆なのかな」ということを思わせられました。どういうことでしょうか?ここには「霊的な賜物」について書かれています。聖書の中で「霊」という言葉は「目に見えない」という意味がありますが、ここでは「神様との関わりにおいて」という意味です。「霊的な賜物」とは、「神様との関わりにおいていただいたもの」と理解してよいでしょう。その「霊的な賜物」とは何よりも先ず「イエスは主である」と信じる信仰です。
私たちの多くは、「イエスは主である」との信仰を告白して洗礼を受けて教会につながっています。信仰は、勇気を出してイエスを主と受け入れて、それを神様に告白している。いわば、信じる心を捧げていると思っていました。しかし、その信仰は、実は、霊(聖霊)の導きによって与えられたものであると聖書は教えているのです。私たちが信仰を持つのではなく、私たちは信仰を与えられているというのです。私たちが「持っている」、「捧げている」と思っているものは、実は「与えられたもの」、「贈り物」なのです。
続きを読みますと教会の働きを支える「奉仕」が並んでいます。これらが「霊的な賜物」と紹介されています。「奉仕」といえば、普通、私たちが捧げるものと思います。しかし、ここでは捧げるものは、「霊的な賜物」すなわち「いただいたもの」と言われています。
例えば美しい歌声で礼拝に奉仕する人がいます。その人の声も歌も実は神様からいただいた贈り物だということです。もちろん、一生懸命練習して、美しい声や上手に歌う技術を獲得したのでしょうが、元々の声も資質も与えられたものです。また、重いものを一生懸命運んで奉仕する人は、それができる体(力)を神様から贈り物としていただいているのです。何よりも全ての根源にある命そのものが自分で得たものではなく、与えられたものです。命を自分の力で獲得した人はいません。そのいただいた命、贈り物としての命をいただいて為す全ての営みは、実は与えられたもの、神様からの贈り物なのです。
私たちは、その贈り物に感謝して、神様の御用のためにお捧げするのです。言葉を変えて言えば、いただいたものの一部を神様の御用のためにお返しするのです。私たちが奉仕としてお捧げしていると認識しているものは、実はいただいたものであったということにここから気付かされます。そういう意味で認識が逆なのです。
私たちが「奉仕」について考える時に私たちの全ては神様からいただいた「賜物」、「贈り物」であるという認識することが大切です。その与えられた恵みに感謝して、聖霊の導きを祈り願うこと、そこから奉仕は始まります。
その祈りの中で、一人一人に違った賜物が与えられます。ある人は豊かな知恵(知識や技術を有効に用いる)、ある人には豊かな知識(情報)、またある人には動かされないでしっかりと信じ抜く信仰、ある人には癒しの力、ある人には預言(神の言葉をわかりやすく伝える力)等々が与えられます。
全ては与えられたものであるという認識を出発点として、そのことへの喜びと感謝をもって、聖霊の導きを祈り願う時、それぞれに合った賜物が与えられます。そしてそれを用いて、全体の益、神様に喜ばれるように用いることができるのです。
「みんな違ってみんないい」詩人の金子みすゞの言葉です。神様の恵みに感謝し、聖霊の導きを祈り願う中で、豊かな奉仕の喜びの世界に歩み出していきたいと思います。
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