2021年05月13日

5月2日 説教要旨


2021年5月2日 復活節第5主日 (父への道)
ヨハネによる福音書第14章1-11節
牧師 木谷 誠

 以前、東日本大震災被災地の幼稚園と保育園を訪ねてお話を聞きました。私が訪ねた園の園児たちに共通していたことがあります。それはどの子も落ち着いて素直に教師の言葉に従っていたということでした。東日本大震災、未曾有の大災害です。今、何が起こっているのか、何をしたら良いのか?子どもたちはわからなかったと思います。子どもたちには自分の身を守る知識も能力もありません。そのような危機の中で子どもたちは幼稚園教師、保育士をただただひたすら信じたのです。
 本日の聖書において、イエスはもうすぐ世を去ろうとしています。弟子たちは今何が起こっているのか、これから何が起こるのか、何もかもわからなかったことでしょう。それ故に弟子たちは大きな不安がありました。その様な弟子たちに対してイエスは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われました。イエスの言っておられることはわからない。でも、イエスという人を信じることはできる。イエスを遣わされた神を信じることはできるのではないでしょうか。「わかる」ことと「信じる」こととは同じではありません。わからなくても信じることはできます。その人との交わりの中で本当に信頼できると思ったら。その人の言っていることはわからなくても、言っているその人を信じるということは、私たちの日頃の人間関係の中でもあることではないでしょうか。
 弟子たちがわかることは、イエスはもうすぐ自分たちから離れていくらしいということだけでした。イエスは、世を去って父のもとに行き、そこに弟子たち、私たちの場所を用意して、私たちを招いてくださいます。そのためにイエスは世を去らなければなりませんでした。しかし、弟子たちにはまだそれがわかりませんでした。訳がわからず不安を訴えるトマスの言葉は弟子たち全員の思いでした。その様な弟子たちに対してイエスは言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。」「わからないのなら、私を信じなさい。そうすればいずれわかる様になる。」とイエスは言われるのです。「道」、それは「進む方法」ということができます。そこを見て歩み続けていれば、目的地にたどり着くことができます。これから何が起こったとしても、どんなに困難があったとしても、不安でたまらなかったとしても、この道をしっかりと見ていれば大丈夫なのです。そしてその「道」こそイエス・キリストです。イエスの言葉に常に聞き、従うことによって、私たちもこの大きな困難な時代を歩んでいくことができます。そしてこのイエスは、「道」であると同時に「真理」です。すなわちイエスが私たちの道であることは、いつの時代でも、どこにいても変わることはありません。そしてイエスは命です。命は交わりです。世を去った後も、聖霊を通して、イエスは私たちと愛の交わりを持ってくださいます。このイエスを見る時、私たちはそこに父なる神が示してくださっている愛を実感できるのです。
 今、私たちは大きな困難の中にいます。これからどうしたら良いのか、途方に暮れてしまいます。その様な時にあっても、その様な時だからこそ、常に「道」であるイエスの言葉を思い、イエスを信じ、イエスの導きに従って歩んでいきたいと思います。
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2021年05月05日

4月25日 説教要旨

決して死ぬことはない

2021年4月25日 復活節第4主日(イエスは復活また命)
ヨハネによる福音書第11章17-27節
伝道師 𠮷川 庸介

 イエスが「愛していた」ほどに大切に思っていたラザロは、イエスが会いに来た時には、すでに死んで四日が過ぎていたとあります。直後ならあるいは、ラザロの死が間違いであったと言えたかもしれませんが、四日は、その希望を打ち砕くには十分な期間でありました。イエスを迎えに来た時に、マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったことでしょう」と声をかけますが、なぜその前に来てくださらなかったとの思いが聞こえてきそうであります。とはいえ、この言葉にはあなたがいれば兄弟ラザロは死ぬことはなかったはずであるというイエスへの信頼を見る気もします。
 ただ、マルタがこの後に語る、「あなたが神にお願いしたことは叶えられると承知している」「終わりの日に復活することを存じています」との言葉にある、「承知」と「存じている」は、まだ知識として知っている状態を指しています。つまり、マルタはイエスの言葉を知識として知っているだけであり、イエスの「あなたの兄弟(ラザロ)は復活する」との言葉を受けても、漠然とまだあるかも分からない未来の希望としてしか、そうだったらいいなとしか、受け入れることができていないのです。
 もちろん、親しい者との別れ、すなわちその死を目の前にして、どのように希望を得るのかを問われれば、また再会することができる、という言葉に他ならないわけです。しかし、それが一時の慰めに過ぎないのなら、何の意味があるでしょうか。
 私たち人間は、哲学者のハイデガーが、「人は有限であり、死へと向かう存在」と語っているよう、寿命を持っている存在であります。それを踏まえて、死ぬことはないという言葉を、信仰共同体の中で皆が覚えて引き継ぐのだから、死ぬことはないのだと語る人もいます。しかし、語り継ぐものがいなくなり、覚えているものがいなくなったらどうでありましょうか。それを生きていた証とは、おそらく言えないでしょう。ならばイエスの言うところの決して死なないとは、何を言い表すのでしょうか。
 イエスは、人というものは無限の中にその身を置いており、有限という枠の中に閉じ込められるのではないことを、そして自分を信じることでそれを確信することになると教えているのです。すなわち、肉体の体の死によって、自分の存在そのものがその時に終わり、死ぬというわけではない、本来あるべき終止符はその先にあるということを教えているのです。つまり、死のさらに向こうに続く道があり、死というものは復活という希望を与えるための通過点にしか過ぎない、というのです。
 まさに言葉遊びのようなものです。死後のことなど、誰が分かろうか、と言われそうです。しかし、事実としてラザロは死から復活へと導かれましたし、イエスご自身が死んだ後に蘇りあらゆる人の前に姿を現し、多くの喜びを与えられました。そしてパウロは「キリストの復活がなければ宣教も信仰も無駄である」とコリントの信徒への手紙で語りますように、まさに復活とはそのまま受け入れるに足りうることなのです。
 確かに私たちは生きている以上、ハイデガーのいうところの有限の存在であり、別れは経験しなければならないわけであります。ですが、その通らなくてはいけない死を、イエスは復活また命、イエスを信じてそれを受け入れることにより希望へと変わることをイエスは教えるのであります。死という別れが、最後には喜ばしいものへと変わることを信じ、そして来たり給うその日を悲しみに背を丸めるのではなく、確信と喜びで受け入れて歩む者でありたいと思います。
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2021年04月29日

4月18日 説教要旨

上にあるものを求めなさい

2021年4月18日 復活節第3主日(新しい命)
コロサイの信徒への手紙第3章1-11節
牧師 木谷 誠

「洗礼を受けたのに全然変わってない…」という声を聞くことがあります。実は私自身がそう思っていました。今では、「17歳の時に洗礼を受けて44年経つのに、全然変わっていない。かえって悪くなっているかも・・・」などと思う時もあります。もちろん、洗礼を受けて、はっきりと生き方が変わった、明るくなったという方もおられます。自分で自分を振り返り、「変わった」とか「変わっていない」とか、判断することも大切です。しかし、それ以上に大切なことがあります。それは神様が自分をどう見ておられるかということです。本日の聖書では「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」という言葉で始まります。この言葉を聞くと私たちはドキッとします。
「えっ、私たちは死んだの?」などと思ってしまいます。どういうことでしょうか?これは、神様が私たちをどう見ておられるのかということを示しているのです。イエス・キリストを救い主として信じて洗礼を受けた人は、それまで自分が信じていたものから別れて、イエス・キリストを信じて生きると決心した人たちです。そして新しくイエス・キリストを信じる生き方へと導かれました。それが「復活させられた」ということなのです。そういうわけですから、神様から見たら、洗礼を受ける前と洗礼を受けた後では、明らかに変わっているのです。私たちは、イエス・キリストを信じて、新しい生き方、新しい命へと導かれているのです。ただし、この新しい命は、まだ完成されているわけではありません。完成は、イエス・キリストが再びおいでになって救いを完成してくださる日を待たなければなりません。私たちはこの新しい命をいただいて、救いの完成に向かって歩んでいるのです。
 その上で「上にあるものを求めなさい」と勧められています。これはどういうことでしょうか?手がかりは本日の聖書の少し前の第2章6節にあります。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」常に自分の主はイエス・キリストであることを覚えて、この方につながって生きることが求められているのです。イエス・キリストは私たちを愛してくださっています。いつも私たちにつながっていてくださいます。いつも共にいてくださいます。聖書を読み、祈ることで、私たちはそのイエス・キリストの愛を実感することができます。その愛されている喜びが、生きる力を生み出します。この生きる力によって、私たちは古い自分の生き方ではなく、イエス・キリストの喜ばれる新しい生き方を求めて歩むことができるようになります。そして聖霊の助けをいただいて、私たちは「上にあるものを求めて」歩むことができるようになるのです。
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2021年04月22日

4月11日 説教要旨

私たちに送られた救いの言葉

2021年4月11日 復活節第2主日(復活顕現)
使徒言行録第13章26-31節
牧師 木谷 誠

 私は実は「私たち」と言う言葉を、説教で使うことがとても怖いです。「私たち罪人」などと言う言い方を教会ではよく聞きます。もし私が教会に初めて来て、この言葉を聞いたら、いやな感じがします。そして私は説教している牧師さん、こう言いたくなるでしょう。「あなたはどうしてそんなに簡単に言うのですか?私のことをどれだけ知っているのですか?決めつけないでください。」「私たち」と言う言葉は、はっきりと理由を示して使わなければならないと思っています。
 今日の聖書には「私たちに送られた救いの言葉」という言葉が出てきています。「私たち」とはどう言う意味なのでしょうか?ここで「わたしたち」は、まず私、それからユダヤ人、そしてそれ以外の人々全員という意味です。救いの言葉は、まず「私」に送られました。そして「わたし」はそれを誰かと分かち合うのです。この救いの言葉は、「分かち合う言葉」なのです。この「救いの言葉」は自分一人で独り占めしてはいけません。この救いの言葉は、分かち合っても減りません。それどころか、分かち合うとますます大きくなるのです。そして分かち合う者全てにますます大きな喜びを与えてくれます。
 それから、ここで「この救いの言葉」が「わたしたち」に送られたもう一つの意味は、すべての人に与えられているということです。この救いの言葉は、今、この言葉を聞くあなたが、信じるならば、この救いをいただくことができるという知らせなのです。
 では先ほどから何度も使われている「救い」とはどういうことでしょうか?救いはナザレに生まれたイエスという人に関わる出来事ことでした。イエスは救い主として世に来られ、ユダヤ人たちに福音(喜びの知らせ)を伝えました。しかし、ユダヤ人たちは、イエスを救い主と認めませんでした。イエスが伝える福音は、ユダヤ人、特に指導的なユダヤ人にとっては、自分たちの立場を脅かす危険な言葉と思われたからです。そしてユダヤ人たちは陰謀をめぐらし、イエスを十字架にかけて殺してしまいました。ユダヤ人たちは、救い主に示された神の愛よりも、今、自分が持っている富や地位や名誉を大切にしてしまったのでした。しかし、イエスは死者の中から復活されました。イエスを救い主として世に送り、救いの御業を実現される神の御計画は、ユダヤ人たちに代表される人間の罪に決して負けませんでした。イエスは復活されました。死を超えて、新しい復活の命の姿を多くの人々に示されたのです。
 このイエスの復活の出来事は、私たちに大切なことをもたらしました。それは、罪の赦しと神の子としての永遠の祝福(愛の交わり)です。そしてこれが救いです。救いとは、ご自身を十字架にかけて殺してしまうような人間の罪がゆるされ、義とされること(本来あるべき神との正しい関係、愛の関係に入れられること)です。これが「私たちに送られた救いの言葉」です。
 イエスを十字架にかけて殺したユダヤ人たちの罪の姿に現れている自己中心、頑なさは私たちの中にもあるのではないでしょうか?神は、そのような罪人の罪をゆるし、愛の交わりに招き入れるためにイエスを救い主として世に送られたのです。このイエスにおいて示された神を信じる時、私たちは、その罪をゆるされます。そして私たちは神との愛の交わりを生きることができるのです。神から愛され、神の守りと導きをいただき、素晴らしい友、素晴らしい仕事をいただいて、喜びの人生を歩むことができるのです。
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2021年04月14日

4月4日 説教要旨

死に打ち克つ交わりの朝

2021年4月4日 復活節第1主日
復活日イースター(キリストの復活)
ヨハネによる福音書第20章11-18節
牧師 木谷 誠

 本日は、イースター、復活日の礼拝です。みなさま、イースター、復活日おめでとうございます。イースターは、イエス・キリストが十字架にかかって死なれた後、三日目によみがえられたことを覚える祝いの祭りです。コリントの信徒への手紙第一第15章3節から5節にはこう書いてあります。「3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。―中略―8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」。キリスト教の「最も大切なこと」はイエス・キリストの死と復活の出来事、そのメッセージです。復活のイエスが現れてくださった。マリア、そして弟子たちに出会ってくださったことによってキリスト教信仰が始まりました。それゆえにイースターはキリスト教にとって最も「大切なこと」なのです。ではそれはどんな出来事だったのでしょうか?
 安息日の翌朝、マリアがイエスの墓に出かけたところ、墓は空でした。マリアは大切な主イエスの遺体に香油を塗り、墓の中をきれいにしようとしていたのでしょう。空の墓を見て、マリアは驚き、悲しみました。マリアは、罪深い自分を救い、人生に希望を与えてくれた主イエスとの大切な思い出が奪われてしまったように思えたからです。しかし、それは大切な過去が奪い取られたということではありませんでした。イエスは死んでしまった「過去の人」ではないというメッセージだったのです。イエスはマリアが見ていた墓の中ではなく、墓の外におられました。イエスは死の中に閉じ込められてはいなかったのです。イエスは生きておられたのです。不思議なことに、マリアは復活のイエスを見て、それがイエスだとはわかりませんでした。イエスの顔をマリアが忘れたのでしょうか?そうではありません。マリアは過去ばかりを見ていたからわからなかったのです。  
 イエスは過去の人ではなく、今、生きて働き、出会ってくださる方なのです。過去ばかり見ていては復活のイエスは見えません。イエスは、死に打ち克ち、今、生きておられます。心の眼差しを過去から今に向ける時、復活のイエスに気づくことができるのです。復活のイエスは言われます。「私にすがりつくのはよしなさい。」イエスは、「過去の思い出にばかり心を向ける(すがりつく)のはよしなさい。私は今、生きている。あなたと共にいる。そしてあなたたちの救いをさらに確かなものにするために天に昇る。そして私に代わって聖霊が降り、いつまでもあなたたちと共にいる。」そのような救いの約束を実現するためにイエスはよみがえってくださいました。この死に打ち克つ出会いの朝の物語は、今の私たちにも力強いメッセージを伝えてくれています。イエスは、死に打ち克ち、天に昇られました。そして今は聖霊の働きによって私たちといつまでも共にいてくださいます。聖書を読み、祈る中で、その聖霊の働きを私たちもいただくことができます。そしてイエスは私たちと共にいてくださるのです。その祝いの祭りがイースター、復活日なのです。みなさま、イースター、復活日おめでとうございます。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 10:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする