2022年10月11日

10月9日 説教要旨

奉仕の豊かさ

2022年10月2日 聖霊降臨節第18主日・
世界聖餐日・世界宣教の日(キリストに贖われた共同体)
コリントの信徒への手紙一第12章1-11節
牧師 木谷 誠

 先週、今週、来週と信仰入門講座「奉仕 恵みに応えて」というテーマと連動してお伝えいたします。2回目の本日は奉仕の豊かさについてです。
 今日の聖書を読んでいて、私は「自分の認識が逆なのかな」ということを思わせられました。どういうことでしょうか?ここには「霊的な賜物」について書かれています。聖書の中で「霊」という言葉は「目に見えない」という意味がありますが、ここでは「神様との関わりにおいて」という意味です。「霊的な賜物」とは、「神様との関わりにおいていただいたもの」と理解してよいでしょう。その「霊的な賜物」とは何よりも先ず「イエスは主である」と信じる信仰です。
 私たちの多くは、「イエスは主である」との信仰を告白して洗礼を受けて教会につながっています。信仰は、勇気を出してイエスを主と受け入れて、それを神様に告白している。いわば、信じる心を捧げていると思っていました。しかし、その信仰は、実は、霊(聖霊)の導きによって与えられたものであると聖書は教えているのです。私たちが信仰を持つのではなく、私たちは信仰を与えられているというのです。私たちが「持っている」、「捧げている」と思っているものは、実は「与えられたもの」、「贈り物」なのです。
続きを読みますと教会の働きを支える「奉仕」が並んでいます。これらが「霊的な賜物」と紹介されています。「奉仕」といえば、普通、私たちが捧げるものと思います。しかし、ここでは捧げるものは、「霊的な賜物」すなわち「いただいたもの」と言われています。
 例えば美しい歌声で礼拝に奉仕する人がいます。その人の声も歌も実は神様からいただいた贈り物だということです。もちろん、一生懸命練習して、美しい声や上手に歌う技術を獲得したのでしょうが、元々の声も資質も与えられたものです。また、重いものを一生懸命運んで奉仕する人は、それができる体(力)を神様から贈り物としていただいているのです。何よりも全ての根源にある命そのものが自分で得たものではなく、与えられたものです。命を自分の力で獲得した人はいません。そのいただいた命、贈り物としての命をいただいて為す全ての営みは、実は与えられたもの、神様からの贈り物なのです。
 私たちは、その贈り物に感謝して、神様の御用のためにお捧げするのです。言葉を変えて言えば、いただいたものの一部を神様の御用のためにお返しするのです。私たちが奉仕としてお捧げしていると認識しているものは、実はいただいたものであったということにここから気付かされます。そういう意味で認識が逆なのです。
 私たちが「奉仕」について考える時に私たちの全ては神様からいただいた「賜物」、「贈り物」であるという認識することが大切です。その与えられた恵みに感謝して、聖霊の導きを祈り願うこと、そこから奉仕は始まります。
その祈りの中で、一人一人に違った賜物が与えられます。ある人は豊かな知恵(知識や技術を有効に用いる)、ある人には豊かな知識(情報)、またある人には動かされないでしっかりと信じ抜く信仰、ある人には癒しの力、ある人には預言(神の言葉をわかりやすく伝える力)等々が与えられます。
 全ては与えられたものであるという認識を出発点として、そのことへの喜びと感謝をもって、聖霊の導きを祈り願う時、それぞれに合った賜物が与えられます。そしてそれを用いて、全体の益、神様に喜ばれるように用いることができるのです。
 「みんな違ってみんないい」詩人の金子みすゞの言葉です。神様の恵みに感謝し、聖霊の導きを祈り願う中で、豊かな奉仕の喜びの世界に歩み出していきたいと思います。
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2022年10月06日

9月25日 説教要旨

奉仕の働き
2022年9月25日 聖霊降臨節第17主日
全召天者記念礼拝(奉仕する共同体)
コリントの信徒への手紙二第9章6-15節
牧師 木谷 誠

 先週、私たちは礼拝堂耐震補強工事完成感謝礼拝を行い、大きな感動と喜び、そして感謝に満たされました。その恵みに応え、感動、喜び、感謝を胸に新しい歩みを進めてまいりましょう。
 さて、10月2日、9日、16日と秋の信仰入門講座を行います。信仰入門講座は、毎年、春と秋に行なっておりましたが、コロナ禍で2020年、2021年と中断しておりました。コロナ禍は治ってはおりませんが、今年度から再開いたしました。以前から思っていたことですが、信仰入門講座は豊かに恵まれます。この恵みを礼拝にご出席の皆様とも是非分かち合いたいと思っておりました。
そこで今回は思い切って礼拝説教と信仰入門講座を連動させる企画といたしました。ちょっと変則的ですが、礼拝説教は本日、10月2日、10月9日、信仰入門講座は一週ずれて、10月2, 9, 16日いずれも朝の9時からとなります。礼拝説教と信仰入門講座は、連動させてはいますが、同じではありません。それぞれに違った角度からお伝えするという企画です。
 本日はその1回目ということで、「奉仕の働き」についてお伝えいたします。「奉仕」は文字通りに読みますと「つかえたてまつる」となります。「相手を自分よりも尊いものとして敬い、相手の役に立つことをなす」ということになります。そのためには相手への愛が必要になってきます。なぜなら愛は常に相手を自分よりも尊い者とするからです。
 そしてこの奉仕の相手としてまず第一に考えられるのはイエス・キリストによって示された神だということです。しかし、このイエス・キリストによって示された神と向き合う時に、私たちは、私たちが奉仕する前に、神から奉仕をいただいていることに気付かされます。
ドイツ語で礼拝という言葉はGottesdienstです。これは「神の奉仕」という意味です。初めてこれを聞いた時、とても不思議に思いました。どうして?礼拝は私たちが神にお捧げするものではないのと思ったのです。しかし、このドイツ語は、礼拝は、私たちに対して神様がなしてくださった奉仕を受けることであり、その神の奉仕に応えて、私たちが神に奉仕することなのだと気付いたのです。このドイツ語の意味はとても深いと思いました。確かに聖書にはこう書いてあります。
 6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
ここでの「僕」とは、イエス・キリストのことです。そしてこの「僕」は神と人との両方に仕えます。イエス・キリストにおいて、神は私たち人間の僕となってくださったのです。そしてイエス・キリストは人生の全てを捧げて、私たちのために奉仕してくださいました。ご自分の命よりも、私たちを尊いものとしてくださったのです。
 このような聖書に示されたキリストの出来事を考えます時、私たちが神に奉仕する前に、私たちは、イエス・キリストにおいて、神から奉仕をいただいていることに気づきます。私たちの奉仕は、すべて、イエス・キリストにおいて差し出されている神の奉仕に対する応答なのです。同時にこのイエス・キリストの「僕」の姿は、私たちの奉仕の最高の模範です。
 そのようにして私たちに与えられている神の奉仕、神の恵みへの応答が私たちの奉仕です。このイエス・キリストにおいて与えられた神の奉仕、神の恵みと向き合う時、私たちは大きな喜びと感謝に満たされます。神への愛が湧き起こりますその喜びと感謝と愛が、私たちが神に応答する力の源なのです。
 その意味で奉仕の相手はまずは神ということとなります。しかし、その奉仕は、ほとんど同時に人への奉仕へと展開していきます。なぜならば奉仕の第一の相手である神が喜ばれること、神に役立つことは、隣人を愛することだからです。誰かを愛したら、その人は自分よりも尊い存在に思えます。そしてその人の役に立ちたいと思います。その人に喜んで欲しいと思います。
同じように神の愛をいただいて、神の愛に応えて、神を愛するならば、神の役に立つこと、神に喜ばれることを求めるのは自然な流れです。この自然な流れの源に、神に愛されている、神から奉仕をいただいている喜びがあるのです。繰り返しそこに帰ることが大切です。
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9月18日 説教要旨

福音は一つ
2022年9月18日聖霊降臨節第16主日
(生涯のささげもの)
ガラテヤの信徒への手紙第1章1-10節
牧師 木谷 誠

 「ライオンは歯の福音」。昔のキリスト教の新聞にこんな広告がありました。歯磨きで有名なライオンという会社は、当時クリスチャンが経営していたのですね。「福音」とは、「良いお知らせ」という意味です。先ほどの宣伝文句は、「ライオン歯磨きは、歯にとって良いお知らせですよ。」というメッセージでした。
 「福音」は私たちにとって良いお知らせです。本日の聖書朗読では4節が福音の中身を表しています。
4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。
 これを読んでいて、私は誤解すると「危ないなあ」と思いました。何が危ないかというと「今の悪の世から」という言葉です。今の世を「悪の世」と呼ぶ時、自分はどこにいるのでしょうか?今の世を悪の世と繰り返し呼んでいると自分をその悪の世から除いてしまう危険があります。
 例えば、モーニングショーなどで過ちや犯罪を犯したニュースが紹介されます。それに対する批判的なコメントを聞いていると自分がいかにも正しい者のように思えてきます。自分も多くの罪や弱さを持っているのに、それを忘れてしまうのです。人の欠点を指摘していると自分がいかにも正しい者、清い者に思えてきます。これは錯覚です。人の欠点を批判しても、それだけで自分がより良いものになることはありません。
「今の悪の世」という言葉と向き合う時、その中に自分もいることを自覚することが大切です。神の前に自分の罪を自覚し、へり下って福音を受け止める時、私たちはこの知らせを福音(良い知らせ)として受け止めるのです。
 福音は、罪深い者への赦し、愛の交わりへの招きの知らせです。自分を罪深くないと思っている人は、福音の喜びを感じることはできません。キリストは、そのような「悪の世」に捕らえられてしまった私たちの罪のためにご自分を捧げられました。キリストは、私たちの罪がゆるされ、神との愛の交わりに入れられるために、ご自身の命を捧げてくださったのです。キリストは罪の負い目を、私たちに代わって、ご自分の命で償ってくださったのです。
 親鸞の「悪人正機説」とキリストの福音はよく似ていると言われます。悪人正機説では、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉は有名です。私もこの言葉には感銘を受けました。ただ、ここで注意しなければならないことがあります。それは親鸞はここで全ての人は「凡夫」であり、煩悩に囚われた「悪人」であると言っていることです。「善人」とは自分の正しさで救われようとしている人であり、自分が悪人であることにすら気づいていない人を意味しています。ですから実質、善人はいない、皆、悪人であると親鸞は言っているのです。
このような親鸞の教えは、パウロの言葉とつながるところがあります。たとえば、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。(ローマの信徒への手紙第3章10-11節)やこのガラテヤの信徒への手紙においての律法を守ることによって救いを得ようとする律法主義者の思い上がりとの戦い等はパウロと親鸞に共通する点であると思えます。
 私たちの救いは、徹頭徹尾、キリストによって示された神の恵みによります。救いの達成のために私たちができることはありません。救いは全くの無条件で私たちに差し出されています。私たちは感謝して、信じてそれを受け取るのです。この無条件に差し出される神の恵みと愛を信じて受け取る以外に救いを受け取る方法はありません。これが福音です。この点において、パウロは決して妥協しません。他の福音はあり得ません。福音は一つです。
 創立143周年記念日、私たちは、なによりもこの福音を共に確かめたいと思います。そしてここから新しい創立144周年への歩みを進めてまいりましょう。
私たちも、神のみ前に自らの罪深さを覚え、自分は救いを達成する何の条件も満たせない者であることを思い知り、へり下って、感謝して、この福音、良き知らせを受け取り、神の子とされて、愛の交わりの内を歩んでいきたいと思います。
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9月11日 説教要旨

手のかかる子ほどかわいい
2022年9月11日聖霊降臨節第15主日
(最高の道)
ホセア書 第11章1-9節
伝道師 𠮷川 庸介

 本日聖書の中における物語の中で、まずエフライムとイスラエルの二つの名前が登場します。エフライムは、北王国の首都部分、あるいは中心地であった場所を指します。なので、ここではもともとイスラエルという一つであったが北イスラエル王国と南ユダ王国に別れてしまった二つの国に対し、まさに二人の子供として扱い、語りかけているのです。
神はまず、エジプトの地で苦役を課され、辛い身であったイスラエルを、神は約束の地、乳と蜜が流れると表現される豊かな地へと連れ出しました。次にエフライムに歩き方を教えるため、手を取り、足を取り育て、傷を負ってもその傷を癒したこと、さらに、あごから重い鎖のようであったくびき、首にかけておく重りのようなものですね、それを取り、小さい背に合わせて身をかがめて。自らの手から口元まで食事を持って行き、食べさせた様子が描かれます。
 旧約聖書で「愛」と言われるとなかなかピンと来ないのが正直なところであります。と言いますのも、旧約聖書で印象に残るのは、厳しく接してくる神の姿です。「神は愛です」との言葉がありますが、それは新約聖書で書かれているもので、旧約聖書で真っ先に思い浮かぶのは「彼らを滅ぼし尽くす」と厳しい言葉を与える神の姿です。絶対者として私たちの前に君臨する父親、そのようなイメージの神としての姿が多いような気がいたします。しかし、この場で描かれるのは厳しい父親のようであり、だが厳しさから守り慈しむような、優しく包み込むような、人を見守られ続けたのであります。
 しかし、これほどまでの限りない愛を注ぎながらなおも応えないため、イスラエルとエフライムは苦役を受け、苦しむ様子が描かれます。ですが、そのようなエフライムとイスラエルを見て、そのような目に遭わされた神ご自身が苦しまれます。いつしか、その怒りは我が子への愛情、哀れみへと変わるのです。一度は激昂の念を抱き、私たちに怒りの感情を抱きながら、それでもなお私たちにその愛情を変わることなく注いでくださっているのです。
 誤解を恐れずにいうのならば、手がかかる子は早々に切り捨ててしまえば良いだろう、聞き分けの良い子を見つけてその子に思いを託せば良いだろう、そのように考えられるものです。しかし、神はこれほどまでにイスラエルよ、お前はなんと酷いのだと慟哭し、見捨てようとしながらも最後には神は顧みてくださるのです。まさに、ダメな子ほど愛おしい、ということでありましょうか。そう思うと神は優しいんだなぁ、いいやつじゃあないか、といったことを思い、一つのストーリーとして面白くも思えます。
 しかしこれをただ面白いということで終わらせてはなりません。なぜなら、これを笑って見ている人ほど、神に対していつも背を向けていながら、自分は真面目に神に向き合っている、手のかかることのない良い子なんだと思うことが多いものだからです。どれだけ背を向けようと、なおも神様がその背中に向かって限りない愛を、人であれば放り投げようとする事態であっても手を伸ばし続けて愛し続けてくださる恵みを、私たち味わいつつ歩む日々でありたいものです。
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9月4日 説教要旨

神様のご計画
2022年9月4日聖霊降臨節第14主日
(すべての人に対する教会の働き)
使徒言行録 第13章44-52節
牧師 木谷 誠

 主の祈りの連続講解説教を終え、今週から再び教会暦に沿ってメッセージをお伝えしたいと思います。さて、私は「刑事コロンボ」というドラマが好きでした。背が低くてうだつの上がらない刑事コロンボが、エリートでかっこいい犯人を素晴らしい推理で追い詰めていく展開が大好きです。私も背が低くてお世辞にもかっこいいとは言えないので、共感するということもあります。私がこのドラマで好きなセリフは「どうしてもわからないことがあるんです。」という言葉です。コロンボは物事を丁寧に見つめて、何気ないことに事件解決の手がかりを見つけます。そんな意味で「刑事コロンボ」は私に聖書の読み方を教えてくれました。今回、「どうしてもわからないこと」として引っかかった言葉は49節の「こうして」という言葉でした。「こうして」とはどういうことでしょうか?
この聖書の文脈からは「こうして」とは、ユダヤ人に反対され、拒まれて、仕方なく(?)異邦人(ユダヤ人以外の人)伝道するようになったことです。パウロとバルナバはまず各地方のユダヤ教の会堂を巡り、ユダヤ人に伝道しようとしていました。「初めにユダヤ人、それから異邦人」という順番です。
 ところがユダヤ人たちはそれを拒み、パウロの活動に反対したのです。パウロとバルナバがイエス・キリストこそ、イスラエル(ユダヤ人)が待ち望んでいた救い主であることを伝えたのに、イスラエルはそれを拒みました。それはとても残念なことでした。しかし、それによって、パウロとバルナバは異邦人伝道に向かうことになりました。「災い転じて福となす」ということでしょうか?
もしユダヤ人が拒まなかったら異邦人にイエス・キリストの福音は伝わらなかったかも知れません。イスラエルが拒んだから、福音はわたしたちの教会にも届いたのです。
 この聖書を読んでいて、私は高校生の頃のことを思い出しました。高校三年生の時です。私は同志社を受験して、結果を待っていました。合格か、不合格か、とても不安でした。もし不合格だったらどうしよう。そうなったら、私は人生の全てを投げ出したくなりそうでとても不安でした。祈祷会の帰り、その気持ちを牧師にお話ししました。するとその牧師はこう言いました。
「そんなこと考えるんじゃない。パウロとバルナバはユダヤ人伝道がうまくいかなくて、異邦人伝道を始めた。それによって異邦人に福音が広がったんだ。自分の願いの通りにならなくても、神様は必ず良くしてくださるんだよ。」
 この牧師のお話は、今日の使徒言行録第13章のことだったのですね。幸い、私は合格して、同志社に行くことができましたけれど、44年前、私はとても不安だった時、この聖書の言葉を聞いていたのでした。あの時、私は牧師さんの言っていることがよくわかりませんでした。44年経って、やっと、その意味がわかりました。あの牧師さんは本当に素晴らしい方でした。神様に感謝します。
わたしたちの人生には思い通りにならないことがあります。わたしたちの知恵と計画がその通りになるとは限りません。しかし、私たちの働きは思い通りにならなくても、一生懸命努める中で、神様が良いように用いてくださるのです。私たちは、そのことを信じて、祈りつつ励めば、神様の救いの大きな御計画の中で豊かに生かしていただけるのです。
 なぜなら、使徒言行録第17章28節にこう書いてあります。『我らは神の中に生き、動き、存在する』そのことを信じて、思い通りにならなくとも焦らないで、希望をもって励んでまいりましょう。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 18:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする