2021年10月28日

10月17日 説教要旨

祝福された人生

2021年10月17日 聖霊降臨節第22主日・
特別伝道礼拝(天国に市民権を持つ者)
マルコによる福音書 第6章35-44節
牧師 窪寺 俊之

 人生には思いがけないこと、想定外のこと、望まないことが襲ってきて戸惑い苦難のどん底に陥れられることもあります。
 主イエス様の弟子たちの人生にも想定外のことがおきました。それもイエス様の後にしたがっていた途中での出来事です。5つのパンと2匹の魚の奇跡物語は想定外の出来事です。その出来事が、キリスト教の歴史で忘れることのできない信仰の宝として語り告げられることになりました。
 5つのパンと2匹の魚の奇跡が起きたのは、人里離れたところで夕方です。大勢の群衆が主イエスのお言葉に惹きつけられて去ろうとしません。イエス様の慰めに満ちた言葉が人々の心に生命を注ぎ込んでいます。時間だけが過ぎて、弟子たちは夜になる前に解散させないと食事の準備ができなくなると心穏やかではありません。そこで「人々を解放させてください。そうすれば自分で周りの里や村へ何か食べる物を買いに行くでしょう」(v36)とイエス様に伝えました。するとイエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(v37)と言われます。弟子たちは、まさか自分たちが食事の準備をするとは想定していませんでした。弟子たちは不満を現しました。「わたしたちが200デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」(v37)と。動き出さない弟子にイエス様は「パンは幾つあるか見て来なさい」と命じられました。行って見つけたのは、5つのパンと2匹の魚です。弟子たちは「パン5つと魚2匹しかありません」(マタイ14:12)と伝えますが、こんなものでは役立たないと失望感がありました。
 私たちの人生にも手に余るような困難や災難がやってきて戸惑い、悩み、ついには不平不満に心がいっぱいになることもあります。信仰が問われた時です。
 この奇跡物語の後半は主イエス様が中心です。イエス様は5つのパンと2匹の魚を取って「天を仰いで賛美の祈りを唱えて」とあります。主イエス様の賛美の祈りによってパンと魚は、神様の力と栄光を現すものに生まれ変わりました。とるに足りないと見られた5つのパンと2匹の魚は大勢の人を満足させる祝福の基になったのです。「すべての人が食べて満足した」(v42)とあります。
 人は、しばしば、神様に委ねることができず、自分の人生を嘆きます。神様を忘れて自己中心になることで、人は自由を失い人を排除してしまいます。人を不幸にするのは、自分の中の罪であることを教えられます。聖霊は私たちの不信仰に気付かせて悔い改めに導いて下さいます。主イエス様は無から有を生み出す方であり絶望を希望に変える方です。聖霊の助けをいただいて全能の神様に期待したいものです。青草の上に整然と座った人々は主イエスがなさることに心を踊らせて注視したことでしょう。
 使徒パウロは神の恵みについてマケドニア州の教会では「苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」(IIコリント8:2)と述べています。激しい試練の中でも喜びがあり、人に施す豊かさがあったと証言しています。試練の中にある小さなものを神様の栄光の器として下さると約束しています。
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10月10日 説教要旨

果たすべきこと?

2021年10月10日 聖霊降臨節第21主日・
神学校日・伝道献身者奨励日(上に立つ人々)
ローマの信徒への手紙 第13章1-7節
牧師 木谷 誠

 本日お読みいただきました聖書は、12章1-2節の具体例の一つ、「上に立つ権威」すなわち国家に対する態度として挙げられています。
さて、私が尊敬するカトリックの神父の一人に本田哲郎神父という方がおられます。本田神父は大阪の釜ヶ崎でホームレスの方々と共に生きておられます。NHKの番組でも紹介されました。番組の中で本田神父は3畳一間に住んでおられ、ホームレスの方のために床屋さんをしておられました。そのような本田神父は学問にも優れておられ、ギリシア語、ヘブライ語への造詣が特に深く、小さくされた人々の立場に立って、聖書を読み、メッセージを伝え、また愛を実践しておられる本当に素晴らしい方です。私は幸いにも本田神父のお話を名古屋で伺うことができました。お話の中身も素晴らしかったですが、質問者を見つめる愛情と好奇心の混ざった暖かい眼差しがとても印象的でした。その本田神父のお話の中で、今日お読みいただいたローマの信徒への手紙第13章1節の翻訳はおかしいといっておられました。確かに元々の言葉は「より優れた権威」と理解することができるのです。また「より優れた権威」という時にも、4節にありますように、その権威が神の御心に従うということが前提となっています。例えば、ここで「上に立つ権威」を国家とした場合、国家が不正を行い、弱い人を虐げている時、神の御心に背いていることは明らかです。そのような中で、国家に無条件に従いなさいということにはならないのです。ただし、国家が法に従って、人々の生命、財産、権利を守っている時も多くあります。そのように国家が神の御心に従っている時には国家に従いなさいとパウロはここで勧めているのです。
 もう一人、種谷俊一牧師という方を紹介したいと思います。種谷牧師は学生運動に参加した少年を匿い、一週間後に警察に出頭させました。そのことで、警察から犯人蔵匿罪で訴えられたのです。しかし、種谷牧師はそれを受け入れませんでした。種谷牧師が学生(教会に通っていた)を匿った行動は、信徒の魂への配慮であり、信教の自由に基づく行動であるとして裁判で争ったのです。種谷牧師の主張は認められ、無罪となりました。この裁判有名で、同志社の法学の教科書には昔は必ず出ていました。その裁判の際、種谷牧師は証言を求められると聖書を引用してお話しなさっていたのだそうです。まるで使徒言行録のパウロのようでした。ある公判の中で、相手が、このローマの信徒への手紙第13章1節を引用して、種田に牧師の行動は間違っているのではないかと問いました。この問いに対して、種谷牧師は「従う」という言葉を「正しく仕える」と理解していると答えたのです。何が正しいかの基準は神の御心です。私たちは神の御心に従って、国家に対して、正しく仕えるべきであるとパウロは教えていると種谷牧師は言われたのでした。私たちは、今、この日本にあって、日本の国が神様の御心に沿っているか、間違っていないかを常に祈りつつ、聖書に聞きつつ、吟味して「正しく仕える」ことが求められているのです。
 私たちの国も歴史の中で国家の過ちを正すことができず、むしろそれに従い、大きな過ちを犯してしまいました。私たちはこの聖書の言葉が伝える本当の意味を受け止め、常に日本の国のあり方が、神の御心に従うものとなっているかどうかを吟味しなければなりません。そのためにも先ず私たちが神のみ心に聞き、神の御心に従い、自分自身を吟味しつつ歩みたいものです。それが私たちの「果たすべきこと」の一つなのです。
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2021年10月14日

10月3日 説教要旨

何によって歩むのか

2021年10月3日 聖霊降臨節第20主日・
世界聖餐日・世界宣教の日(信仰による生涯)
ヘブライ人への手紙 第11章7-22, 29-31節
牧師 木谷 誠

 ヘブライ人への手紙第11章では旧約聖書の信仰者たちが紹介されています。「信仰によって」という言葉が繰り返し出てきます。この「信仰」とは何を意味しているのでしょうか?ヘブライ人への手紙第11章1節には「1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。この言葉をキーワードとしながら、それぞれの人物の物語を通して「信仰」が語られています。
 まずはアブラハムの場合です。年老いて与えられた息子イサクは一族の運命をつなぐ貴重な後継ぎでした。そのイサクを神は生け贄として捧げよと命じたのです。イサクを生け贄として捧げれば、当然イサクは死んでしまいます。そうなればイサクによってアブラハムの子孫は祝福を受けるという神の約束は果たされません。しかし、イサクを捧げなければ、神の命令にそむくことになってしまいます。どう考えてみても矛盾しています。人間の知恵では解決できません。そのような解決不可能な状況でも、神に従い通すならば、神は悪いようにはなさらないとアブラハムは信じたのでした。神はイサクの命を救い、祝福を再確認しました。アブラハムに与えた神の約束は裏切られませんでした。
 次はイサクです。イサクには双子の息子がいました。エサウとヤコブです。あとを継ぐ祝福は弟のヤコブに与えられました。祝福は一つしかありません。一人に与えられれば、もう一人には与えられません。しかも二人は解決不可能なほどに深刻な対立状態となってしまいました。それでもイサクは二人の息子の祝福を祈りました。イサクは解決不可能、和解不可能な関係であっても、神は必ずなんとかしてくださると信じたのです。ヤコブの子孫はイスラエル、エサウの子孫はエドム人です。それぞれに争いを続けながらも、後々にはエドム人はイスラエルに吸収されていきました。神様はイサクの祈りにそれなりに答えてくださいました。この後のヤコブ、ヨセフたちも基本的には同じです。
 このようにそれぞれの信仰者たちの物語をみていきますと、そこから浮かび上がってくる信仰は、「望んでいる」こと、すなわち神の約束は、必ず実現すると確信することです。そしてこのようなことをなされる方はイスラエルの神のみであると告白することだということとなります。まだ見ていないこと、到底実現(解決)不可能に思えることであっても、神の約束は必ず実現すると信仰者たちは信じたのです。それを確信することは、人間の知恵や経験では不可能なこと、あり得ないことを信じるのですから、決して容易なことではありません。しかし、人間の可能性を超えて神は生きて働かれます。そのことが旧約の物語によって示されているのです。
 これらの信仰者たち、確かに立派な信仰者です。しかし、忘れてはいけないのは、私たちと同じ人間だということです。彼らは自分たちの知恵と力の限界がよく分かっていました。だからこそそれを超える神の御業の世界に自分を委ねていったのです。そして神は、これらの人々の信頼に応えてくださいました。神は人々に寄り添い、導き、その約束を実現してくださったのでした。この神の御業の世界に私たちも招かれています。約束を忠実に守ってくださる神の真実は永遠です。私たちの世界にも大きな不安があります。先が見えません。しかし、かつて旧約の信仰者たちに寄り添い、導かれた神は、今も、そしてこれからも生きて働かれます。神は聖霊によって私たちの心に愛の炎を燃やし、慰め、励まし、導いてくださいます。この神の御業の世界に私たちも信仰によって歩み出してまいりましょう。
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2021年10月08日

9月26日 説教要旨

奉仕のために

2021年9月26日 聖霊降臨節第19主日・
全召天者記念礼拝(労働の意味)
テサロニケの信徒への手紙二 第3章6-13節
牧師 木谷 誠

 今日の聖書、皆様はいかがでしょうか?この言葉はついつい怠惰になりがちな私にとっては耳に痛い言葉です。ただ、ここで言われている「怠惰な生活」は、少し事情が違うようです。どういうことかと申しますと、当時のキリスト教会においては、天に昇られたイエス・キリストが再び地上に来られる、いわゆる「キリストの再臨」への期待と切迫感が強くありました。テサロニケの教会の人々は特にその意識が強かったようです。そのような中で、日々の仕事がなかなか手につかない人々、キリストの再臨が近いから、働いても無駄だと思う人々がいたようです。人々が怠惰になっているのは、そういう事情が大きかったのです。そのような中にあって、パウロは、浮き足立つことなく、落ち着いていなさい。そして自分に与えられた仕事にしっかりと励みなさいと勧めているのです。
 このようなキリストの再臨への期待と切迫感は、今日の私たちにはなかなか共有できないところがあると思います。なぜならばキリストが天に昇られてからもうすでに2000年近く過ぎているからです。日本キリスト教団信仰告白でも「主の再び来たりたまふを待ち望む」とありますから、キリストの再臨はとても大切な信仰の事柄です。私たちはもう少しこのことは日々の信仰生活の中でも意識すべきでしょう。しかし、テサロニケの教会の人々のように、「今日かもしれない。いや明日かも」という切迫感を持つのはなかなか難しくなってきています。おそらく、「キリストが再臨する前に私たちは地上の命を終えているだろう。キリストの再臨の時には、既に死んでいて、新しい命に復活するのだろうな」と考えている人がほとんどでしょう。では今日の聖書は私たちにはあまり縁のないメッセージなのでしょうか?そうではありません。私たちもテサロニケの教会の人々と同じようにキリストの再臨の時に向かって生きています。同じような期待感、切迫感を持つことは難しくても、今、落ち着いて、与えられた仕事(つとめ)に精一杯励むことが、キリストの再臨への最も良い備えであるという意味であれば、このパウロの言葉を受け止めやすいのではないでしょうか。
 今日の聖書に聞きながら、私が初めて教会に遣わされ、そこで初めての記念会の御用をつとめた時のことを思い出しました。その時に歌った讃美歌が54年版の368番でした。「つとめいそしめ 花のうえの きらめく露の 消えぬまに とき過ぎやすく 暮れはちかし あさ日てるまに いそしめよ」。私たちは、神様から命を与えられました。この命の時は限られています。この命に感謝して、喜んで、与えられた仕事に精一杯励むこと、それが命の与えてくださった神様が最も喜ばれることであり、イエス・キリストの再臨に向けてなすべき最も良い身支度でもあるのです。そしてそれは命を与えられ生かされている今しかできないことなのです。与えられた命に感謝し、精一杯日々の仕事(つとめ)に励んでまいりましょう。
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9月19日 説教要旨

誰にならうのか?

2021年9月19日 聖霊降臨節第18主日・創立記念礼拝(新しい戒め)
エフェソの信徒への手紙 第5章1-5節
牧師 木谷 誠

 本日は今治教会創立記念日礼拝です。心から神様に感謝したいと思います。昨年に引き続き、コロナ禍で迎える創立記念日礼拝となりましたが、そのような中でも聖書の言葉の恵みを分かち合って、143年目への歩みを始めましょう。
 本日の聖書は1.「私たちが何者であるのか」、2.「私たちはどう生きるべきか」を示しています。
1.についてパウロは「神に愛されている子ども」と言っています。これは例えです。厳密には私たち人間は「子ども」ではなく、「被造物(造られた者)」です。ここで「神の子ども」と言われるのは「神との愛の関係、愛の交わりに生きる者」ということを意味しています。このように私たちが神との愛の関係に生きる者とされていることは、「にもかかわらず」という言葉がついてきます。第一は、人間創造の初めのことです。神は人間を土のちりから造った「にもかかわらず」この人間をご自身との愛の交わりに生きる者とされたのです。これはとても大きな恵みでした。ところが、人間は神に背き、罪を犯しました。その罪は人間にからみついて、人間は自分の力でそれを取り除くことができなくなりました。「にもかかわらず」の第二の意味は、イエス・キリストの時になって、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪をゆるされ、神との愛の交わりに生きる者としていただいたことです。繰り返し神を裏切り、罪を犯す「にもかかわらず」、ゆるされて、愛の関係に招き入れられて、愛の関係に生きる者とされました。そのためにイエス・キリストが十字架にかかって罪を償ってくださいました。罪をゆるされ、神の子どもとされている恵みは、イエス・キリストの命というこれ以上ない高価な代償によって実現したのです。
 ここから2.「私たちはどう生きるべきか」へとつながっていきます。「神に倣う者」という言葉にも繋がっていきます。決して簡単なことではありません。まず大切なことは、常に神の愛をいただくということです。常に聖書の言葉に聴き、祈ることを通して、神の愛を心にいただくことから神に喜んで従おうという愛の応答が生まれてきます。さらにその愛の応答は「神に倣う者」というイメージが示されています。神の愛への応答として、イエス・キリストに倣う者となることが私たちに求められているのです。中世において、トマス・ア・ケンピスが書いた「キリストにならいて」という名著があります。カトリックのみならずアメージンググレイスの作詞者であるジョン・ニュートンやメソジスト派の創始者ジョン・ウェスレーもこの本によって導かれました。キリストを模範として、キリストに学びつつ生きるという意味になります。そのように「神に倣う者となりなさい」というパウロの言葉を「キリストに倣う者となりなさい」と理解するとより具体的にはなります。しかしながら、それは到底自分たちでは真似のしようがない実現不可能な目標に思えます。全く実現できないことを目標とすることは、とても辛いことになります。
 ところで昔、わたしは公民館の書道教室(漢字)に通っていたことがあります。王羲之の「集字聖教序」が手本でした。「書聖」とも呼ばれる王羲之の書をお手本にしても、とてもその通りにかけるものではありません。一体いつまでこのお手本をやればいいのだろうかと悩みました。その時、書道の先生は、「同じように書けなくても、一生懸命真似て努力することに意味があるんだよ。」と言われました。目標に到達できなくても、その目標に到達しようとして努力し続け、自分なりに成長していけば良いのです。「神に倣う者」、「イエス・キリストに倣う者」も同じです。とても到達できない。それでもそこを目指して一生懸命日々努力することの中で、私たちは成長することができます。イエス・キリストの言葉に聞くこと、イエス・キリストに祈ること、そのようにしてイエス・キリストとの交わりに生きる時、私たちは神様に喜ばれる「神様の子ども」としてより良い者へと育てられるのです。神様が私たちを育ててくださるのです。イエス・キリストに倣う者として歩む時、私たちは神の愛、イエス・キリストの愛をひしひしと感じ、神様に喜ばれる、神様に愛されている子どもとして歩んでいくことができるのです。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 09:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする