2022年09月27日

8月28日 説教要旨

全ては神に
2022年8月28日聖霊降臨節第13主日
(新しい人間)
歴代誌上 第29章10-13節
牧師 木谷 誠

 主の祈りのメッセージを礼拝の中で皆様と分かち合ってきました。本日はいよいよ最後の部分となりました。「国と力と栄とは・・・」については、思い出があります。私が高校生の頃のことです。カトリック教会のミサにとても興味があったので参加しました。初めての経験なので、ミサの流れが、全然わかりませんでした。その中で唯一知っていたのが主の祈りでした。「あっ、これなら知っている」と張り切って大きな声で唱えていました。最後の「国と力と栄とは」のところで私の声だけが聖堂に響いていました。カトリック教会の主の祈りにはこの部分がないのです。びっくりしてとても恥ずかしかったことを覚えています。
 マタイによる福音書で主イエスが教えている主の祈りでもこの「国と力と栄えとは・・・」はありません。この部分は頌栄(神を褒め称える部分)として後の時代に加えられました。もっともユダヤ教においては、祈りを唱える時、その文章の最後に自由に頌栄の言葉を添えて祈りを終えるという習慣があったそうです。だからマタイによる福音書の主の祈りを教会で捧げる際にも文章にはなくても最後にこのような頌栄を加えていたのだろうと言われています。ではどうしてこのような頌栄を加えるのでしょうか?
 その理由を知る手がかりが本日お読みいただきました歴代誌上第29章のダビデの祈りにあります。この祈りは、ダビデが王としてのつとめを終え、ソロモンに引き継ぐ際に捧げられた祈りです。ダビデは神を深く信じて、従い、イスラエルの王国を築き上げることができました。その日々は苦難と戦いの連続でした。その日々を神に守られ、王としての栄光に包まれて、ダビデは宮殿で暮らすことができるようになりました。全ては神の恵みでした。この恵みに感謝して、ダビデは、神を礼拝し、ほめたたえる神殿を建てることを願いました。しかし、神はそれをお許しになりませんでした。なぜならダビデは戦いに明け暮れて、多くの血を流したからです。ダビデはイスラエルの王国を築き上げました。これでダビデのつとめは終わりました。神殿を建てるつとめはソロモンに委ねられたのです。ダビデはこの神の御心を受け入れ、王の座をソロモンに譲ります。そのようにして王のつとめを終えるにあたって捧げられた祈りが本日の聖書です。ダビデの祈りは神への賛美の思いが一貫しています。「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの・・・」ダビデは数えきれない苦難と戦いを経て、イスラエルの国を築き上げました。王国を建てたその栄光も誉も、威厳も、全国土も、財産も全て、神のものであるとダビデは告白しています。ダビデは全ては自分の力で得たものではないというのです。ダビデは多くの苦難を乗り越え、戦いに勝利して得た全ては神の恵みの贈り物だというのです。これは決して簡単なことではありません。人間には権力欲、名誉欲、物欲など様々な欲望があります。自分が褒められたい。自分の力を誇りたい。自分の欲望を満たしたい。そのような誘惑があります。ダビデはそれら全てを捨てました。ダビデは全て神の恵みの贈り物であって自分の力で得たものではないと告白しているのです。ダビデの人生を見ますと本当に生きていたことが不思議としか言えないほど、多くの苦難がありました。それを乗り越えることができたのは、ただひたすら神の恵みであると告白しているのです。私たちもこのダビデの祈りを読む時、自分の人生を振り返ってみたいと思います。私たちが、今あるのは、自分の力でしょうか。今持っているものは自分の力だけで得たものでしょうか?そうではありません。私たちの持っているもの全て、命も体も何もかも実は神様からの恵みの贈り物なのです。そのことを改めて確かめ、神様に感謝し、神様を褒め称えることの大切さをダビデの祈りは私たちに教えてくれています。このことが主の祈りの結びにもつながるのです。
 「国と力と栄とは 限りなく汝のもの なればなり」と祈る時、私たちは、私たちのすべてが神によってお支えられていること、私たちの持っているものは全て神様から与えられたものであることを確かめたいと思います。そして私たちは全てを自分の力で得たかのような思い上がりを戒め、へり下って、神に感謝し、ほめたたえる生活を送っていきたいと思います。
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8月21日 説教要旨

2022年8月21日聖霊降臨節第12主日(家族)
ヤコブの手紙 第1章12-16節
牧師 木谷 誠

 主の祈りのメッセージを礼拝の中で皆様と分かち合っています。とても貴重なそして楽しい学びをさせていただいて感謝しています。主の祈りがとても新鮮に感じられます。主の祈りの奥深さ、恵みの豊かさを思い知らされました。
さて、本日は、「試みに遭わせず」という祈りです。この祈り、なんだか違和感を感じていました。もっと正直に言えば、「かっこわるい」と思っていました。
 高校生の頃、時代劇のテレビドラマを見ていたら、毛利氏打倒に生涯をかけた軍師山中鹿之介が月に向かって「我に七難八苦を与えたまえ」と祈り願うシーンが好きでした。昔は、「患難辛苦を乗り越えて」とか「人生七転び八起き」、「人生は重き荷を負いて遠き坂をいくが如し」などなど、苦しみを我慢して、頑張って乗り越えていくことが美徳と言われる時代に育ったからです。
弱みを見せてはいけない。人に甘えてはいけない。迷惑をかけてはいけない、がんばりましょう。そんな意識が特に日本人には強いのではないでしょうか?私自身は全然そういう生き方はできていないのですが・・・それはともかく、そんな時代の価値観、道徳観に生きてきたためか、私はこの祈りに違和感を感じていました。
 そんな違和感を時に感じる私たちに対して、イエスは「そんなに片肘張りなさんな、「リラックスしなさい。弱さも欠点も正直に出してありのままでいなさい。」と言っているのです。
 主の祈りのこの祈りの中で、イエスは「神は、あなたのありのままをそのまま愛して、受け入れてくださる『天の父』なのだよ。だからこの祈りを祈る時、自分の弱さも欠点もありのままの姿でいなさい。強がらなくていいから、カッコつけなくていいから、辛い時には泣いてもいいから。ありのままの自分を正直に出して、神様に頼りなさい」と言っているのです。
昔、中学2年生の頃、東京に行ったことがあります。埼玉に住んでいた叔父が銀座に連れて行ってくれました。お昼ご飯でお店に入ったら、値段の高いことにびっくりしました。私はおじさんに遠慮して、何も言えませんでした。そうしましたらおじさんが「まこちゃん、おじさんには遠慮せんでんいいとよ」と言ってくれました。とても優しい素敵なおじさんでした。この祈りを学びながら、叔父のことを思い出しました。
その意味では本日の「試みに遭わせず」という祈りは、冒頭の「天の父」という言葉と対応するのかもしれません。私たちのありのままを愛してくださる天の父の前で、弱さも欠点も全て正直でいなさい。ありのままの子どもとして「天の父」に自分を委ねなさい。助けを求めなさいとイエスは教えているのです。
 私が牧師になった初めの頃、私を支えてくださった明治生まれの信徒さんがいました。その方が、「わたしたちはみな神様の赤ん坊なのです。」と言っておられたことを思い出します。だから神様には甘えていいのです。弱い自分のありのままを認めて 神様にお委ねしましょう。神様に頼りましょう。試練は必ずやって来ます。その時にはどうか助けてください、導いてくださいと祈ることをイエスは主の祈りの中で私たちに教えているのです。
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2022年08月29日

8月14日 説教要旨

我が身より重いもの

2022年8月14日 聖霊降臨節第11主日・(主に従う道)
マルコによる福音書 第9章42-50節
伝道師 𠮷川 庸介

 直前の41節に、「キリストの弟子という理由で一杯の水を飲ませてくれる人は必ずその報いを受ける」とあります。私たちはきっと、その人がどんな行為したかでその善悪を判断することでしょう。ですが神が見られるのはその行為そのものではなく、神のためにという思いを持っているかどうか、というわけであります。それは、世間から見るとそんな小さなことでも見逃さないということであり、裏返せばキリストを信じる人をつまずかせるならば、それを決して見逃すことはないと言うことです。イエスは、人をつまずかせた報いを味わうよりも、「大きな石臼を首にかけられて海に投げ込まれる方がマシ」と言うのだから恐ろしいことです。
 人をつまずかせるくらいならば・・・と言われるくらいですので、私たちは気をつけるのですが、つまずかされる人はなかなかいなくなりません。では、つまずかせるのはどんな人だと考えると、意外なことに真面目でこうしなくてはと考えている人のことが多いことに気がつきます。なぜなら、その人たちはこうすべきだという判断を持って、時にそれで自分と他人との間に、できているかできていないかによって優劣をつけてしまうからです。あえて言うのなら、それが人間の限界というやつなんだろうと思います。それを克服しようと考えて、結局は自分はそれができるんだと考えて自分を結局神のように考えて、人を裁くことにもなるのだと思います。
 だからこそ43節からの言葉を今一度見ていきましょう。自分にとってつまずきになることが取り上げられ、報いを与えられるくらいならこうしてしまいなさい、ということが書かれていますが、これはすなわち他人へのつまずきを与えるものとして挙げられていることに気が付かされます。ここで、挙げられているものは手と足と目ですが、これらは大体罪を犯す代表的な部分であります。と言いますのも手は人を傷つけ、足は人を踏んで下にし、目は相手を欲望をもって見る原因となります。罪を犯す部分を持ち続けることを選んで五体満足でいることよりも、自分を、果ては人をつまずかせるものを切り捨ててしまった方がよいのだと言いたいのでしょう。しかし、誤解してはならないのは、自分をつまずかせる手、足、目の片方を失えばつまずくこと、つまずかせることがないのかといえば、そんなことはないものです。結局のところ、手に、足に、目にその罪を行わせるのは自分自身の心なのであります。
 では、自分自身の心とどのように向き合えばいいのであろうか、という問いへの回答が、49.50節です。火で塩味が付けられるとあります。火は不純物を分けて精錬させるために必要なものであることから、浄化に至るための神による試練であるとの解釈がありますが、そうだとすればその試練を通して不純物が取り除かれた塩へと変わるのです。
 塩とは生活必需品であり生きていくのに欠かせないものであります。ですが、普通の塩はしだいに塩気を失ってなんの価値のないものへと変わっていきます。その時に、その塩に自分の中にある塩をその塩気を失った塩へと施すため、神を中心に置いた生き方をしていなさいと言うのです。それは、ほんとうに神による試練でありましょう。日々生きていく中で私たちの元へとやってくるあらゆる心を煩わせる事柄がそれだと言えます。だが、その煩わせるもの、試練によって、私たちは人を裁くこと、つまずかせる立場からまさにキリストのためにと言う思いを持って生きていくのでしょう。
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8月7日 説教要旨

罪をゆるしてください

2022年8月7日 聖霊降臨節第10主日・平和聖日(キリストの体)
マタイによる福音書 第18章21-35節
牧師 木谷 誠

 主の祈りを取り上げようと思った時から「最難関」、「一番難しい祈り」は今日の祈りかなと思っておりました。でも、私はそれは間違いであると気付かされました。どの祈りもとても大切であり、易しいお祈りは一つもないと思いました。ただ、どの祈りも同じではありません。本日の祈り「罪をゆるしてください」は、その難しさがわかりやすいということはあるかも知れません。
 過去、こういう質問を何度か受けました。「私たちが罪をゆるさないと私たちの罪はゆるされないのですか。私たちがゆるすことが私たちの罪の赦しの条件なのですか?」という質問です。今日読んだ聖書もそう読めます。困ることは二つあります。一つは「罪の赦し、すなわち救いの大切な要点の一つは、イエス・キリストの十字架によって、無条件で与えられます。私たちはそれを信じるだけで良いのです。」という福音の根本原理と矛盾するという点です。もう一つは、私たち人間にはどうしてもゆるせない場合があって、この祈りを祈るのはとても苦しいということです。
 それから主の祈りの原文とされるマタイによる福音書とルカによる福音書でもこの祈りは少し違っているのです。マタイでは「赦しました」とあり、ルカでは「赦します」となっています。この違いは大きな問題です。そのようにこの「ゆるす」という言葉をめぐっては色々な問題、疑問があります。ずっと悩んでいました。この祈りの中でイエスは要するに「赦し合えるように、赦す者となれるように」願いなさいと教えているのではないかと思うようになりました。
 本日の聖書において、ゆるしについて、イエスは「「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と言っています。7の70倍は490回です。491回目からはゆるさなくてもよいのでしょうか?ここでイエスは「数えるのをやめなさい」と言っておられるのです。もう一つの譬え話では、イエスは、「人はゆるされてもゆるせない存在であることを思い知りなさい。そのうえでゆるせる者となれるように神様に祈り願いなさい」と教えておられるのです。
 ゆるしと和解は人生における大問題です。「色々とご迷惑かけてごめんなさい。ありがとうございました。愛しています。」と言って人生を終えることができたらと思います。しかし、ゆるされてもゆるせないのが、人間の現実と思わされることがあります。
 この祈り、自分の力ではなかなか実現できないと思います。主の祈りの祈りはどれもそうです。先週も申し上げましたが、「今はできない」です。この祈りを祈る時も、私たちはゆるされてもゆるせない自分の罪深さを思い知らされます。そして「今はできない」というへり下った思いを持って、悔い改めることが大切です。その上で、これまた先週申し上げました通り「いつか、神様の助けを借りてできるようになる」と信じて良いのです。そのような希望があります。
 ゆるす者となれますように、ゆるし合う群れとなれますようにと、心を込めて祈りましょう。常に聖書を学び、祈り、礼拝を守り、奉仕する中で、私たちは自分の罪に気付かされます。そして日々、神様の前に悔い改めます。ゆるしていただいている感謝と喜びに満たされます。その罪の悔い改めとゆるされている感謝が、私たちがゆるしあう群れとなるための身支度となるのです。その中で私たちは少しずつ少しずつゆるし合う群れとなることができるようになるのではないでしょうか。
 本日は、平和聖日です。昨日は今治大空襲と広島への原爆投下がなされた日でした。悔い改めとゆるし、そして和解が平和を実現するのです。
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7月31日 説教要旨

日用の糧を与えてください

2022年7月31日 聖霊降臨節第9主日・(神による完全な武器)
テモテへの手紙一 第4章1-5節
牧師 木谷 誠

 6月19日から主の祈りに学び、そのメッセージを分かち合ってまいりました。その中で思ったことが二つあります。
 第一は、「当たり前のことは当たり前ではない。」と言うことです。ちなみに「当たり前」の反対は「ありがたい」です。私たちは主の祈りの始まりに「天にましますわれらの父よ。」と祈ります。いつもそうお祈りしているとそれは慣れていて当たり前のように思えます。でもそうではありません。「天にいます」神が、「わたしたちの父」となってくださる これは当たり前ではないのです。聖書の元々意味では、神と私たちの関係は、創造者と被造物の関係です。造られたものに過ぎない私たちが、神から愛の交わりを与えられて、神に向かって、親しく「父」とよびかけることができるのです。これは当たり前ではありません。これはありがたいことです。驚くべき恵み、なのです。
 第二は「今はできない。しかし、いつか神様の助けによってできるようになることを信じて祈り願う」ということです。イエスは主の祈りの中で、今はできないけれど、いつかはできること、自分の力だけではできなくても神様の助けをいただいてできるようになること、実現することを祈り願いなさいと教えたのです。
 この二つのポイントを心に留めながら、本日の主の祈りの第三の願い、「我らの日用の糧を与えたまえ」について考えてみましょう。とても恥ずかしいのですが、私がこの祈りを祈る時、どこか切実さがなかったように思います。いつも当たり前のように毎日の食事をいただいていたからです。しかし、毎日の食事をいただくことができると言うことは当たり前のことでしょうか? 皆様は世界が100人の村だったらという本をご存知ですか、そこにこう書いてあります。
 村に住む人びとの100人のうち20人は栄養がじゅうぶんではなく、1人は死にそうなほどです でも15人は太り過ぎです 
75人は食べ物の蓄えがあり 雨露をしのぐところがあります でも、あとの25人はそうではありません 
 ここで礼拝をしている私たち、おそらく全員、毎日の食事を当たり前にいただいていることでしょう。しかし、割合で言えば四人に一人の人は十分な食べ物をいただいていないのです。かなり大きな割合ではないでしょうか?そう考えますと日々の食事をいただくことができると言うことは、実は決して当たり前ではないと言うことがわかります。これはとても尊い感謝すべきことなのです。
 次に第二の観点、「今はできない。しかし、いつか神様の助けによってできるようになることを信じて祈り願う」と言うことに注目して、この第三の祈りを考えてみましょう。まず、「われら」について、「われら」とは、誰でしょうか?どこまででしょうか?神様と向き合う時、全ての人は神様の愛するこどもです。そのように考える時、この主の祈りに出てくる「われら」とは地球全体の人々を意味していると考えるべきなのではないでしょうか?そしてこの世界の四人に一人が十分な食事「日用の糧」をいただいていないのです。そうであれば、私たちは、この祈りを真剣に祈り願う必要があるのではないでしょうか?岩手の詩人宮沢賢治はこのようなことを言いました。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と。「われらの日用の糧を与えたまえ」と言う願いは、まだできていないから祈り願うのです。そのようにこの祈りは、まだ実現していないことを祈り願っているのです。世界には日々の食事をいただくことができない人が、「われら」の中の四人に一人いるのです。だからこの祈りをもっと真剣に祈らなければなりません。この祈りを祈る時、日々の食事をいただくことができることに感謝すると共に、食事をいただくことができない人のことを覚えて祈り、その人々のためにできることをすることが求められているのです。今、社会全体でも、このことは考えられています。たとえば、フードロスを減らすことは大きな社会のテーマです。それからフードバンク、こども食堂などの取り組みがあります。「われらの日用の糧を与えたまえ」と祈る時、私たちは、今はできていないことを自覚し、へり下った心で、神様の助けによっていつかできるようになると言う希望を持ってこの祈りを祈り、その実現のために力を尽くすことが求められているのです。
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