2021年09月22日

9月12日 説教要旨

分け隔てていませんか?

2021年9月12日 聖霊降臨節第17主日(隣人)
ヤコブの手紙 第2章8-13節
伝道師 𠮷川 庸介

 かつて永遠の命を受け継ぐ条件は何かをイエスに問うた青年は、「聖書には心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛することと記されている」と答えております。これに対してイエスは「然り」と返答しています。つまり、これらが永遠の命を得るという命題を果たすための重要な事柄なのであります。また、この事柄について、明文化したものが律法であり、人を自由へと導くものです。ただし、それを私たち人間が守ることができるかと問われると、やはり答えは否なのでありましょう。
 冒頭に、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は尊いこととありました。ただし、「これを実行しているならば結構であるが…人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯す」とあります。分け隔てる、とは依怙贔屓(えこひいき)をする、という意味でもあります。これはただ、隣人とそうでない人といった具合に区分することだけではなく、神を、キリストを信じるようになった人たちに、そして私たちに、律法への向き合い方を問いかけているのです。
 律法が神から与えられているものなら、それは絶対的に正しいもの、言い訳が効かないものであります。ですが困った人に手を差し伸べるということについて、自分が困った状況にいる時はどうでしょうか。もっと身近な道徳的に置き換えるなら、人と約束がある時、泣いている子どもを見たら声をかけるでしょうか。その時の状況に置かれている自分なら仕方がないのだ、という自分に対する依怙贔屓をしていることはないでしょうか。もしも、他人を自分のことのように愛そうとしている自分は、他のことで、例えば嘘をつくとか見て見ぬ振りをするといったことについて、一つ、二つを違反しても構わないと考えてしまうなら、その時点で律法に対し、神に対して違反者にならざるを得ないのです。
 こう見ていくと、律法は自由をもたらすものではなく、むしろ人を縛り付ける印象を受けます。そして、今日の冒頭の最も尊い律法を実行しているのなら結構だが…あなたはそれ以外で分け隔てたり依怙贔屓をしていませんか?という問いかけに真摯に向き合ったなら、きっと分け隔てている、という答えしか出ないでしょう。ではどうすればいいのか、といってもこの問いは堂々巡りであり、答えは出てくるものではありませんし、これが答えだとはっきりと言えるものもありません。ただ、私たちが時に守れないという罪を犯しても、それを赦すため、神はイエスを地上に送られたのだということをどうか覚えたいのです。神からの言葉を破った事実を赦すことができるのは神のみであります。だからこそ、イエスを神は地上に送り、犠牲として十字架につけて惨たらしい死を迎えさせたのです。実はこれが最後の言葉につながります。
 あなたは憐れみ深い者でなければならないとありますが、これは律法を守ることができない苦しみを取り除くため、自分の死をもってイエスが憐れみを与えられたのに、なぜあなたは他人を憐れまないのか、ということなのです。憐れみをかけない者とは、神からの憐れみにより赦されているにも関わらず、自分は憐れみをかけないで良いと考えている者です。自分に対して依怙贔屓を、あるいは人に対し分け隔てをすることを神は望まれはしないでしょう。いかなる時も自分を見返し、神に望まれているふるまいを心がけたいものです。
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2021年09月16日

9月5日 説教要旨

固く結び合いなさい

2021年9月5日
聖霊降臨節第16主日(教会の一致と交わり)
コリント信徒への手紙一 第1章10-17節
牧師 木谷 誠

 「固く結び合いなさい。」使徒パウロがそう命じるのは何故でしょうか?教会に集まる人同士が、「付き合いが長いから」でしょうか?「同じ町に住んでいるから」でしょうか?「利害が一致するから」でしょうか?全部違います。その根拠は9節です。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」。「固く結び合いなさい」と命じる根拠は、人間関係でも、地縁でも、利害関係でもありません。それはイエス・キリストによって実現した救いの出来事なのです。イエス・キリストの十字架に示された神の愛によって、全ての人が罪をゆるされ、神様との(イエス・キリストとの)愛の交わりに入れていただきました。私たちは、「神の子」とされたのです。神様は、私たち一人一人をご自分の子どもとして愛してくださいます。自分の子どもが憎み合うことを喜ぶ親がどこにいるでしょうか?神様は、子どもである私たちが固く結び合い、心を一つにし、思いを一つにしていることを喜ばれるのです。逆に、神様は、私たちが仲違いしたり、分裂して憎み合っていることを深く悲しまれます。また世の中に対しても、教会に集う者が、神の子として、互いに愛し合い、心と思いを一つにしているならば、それは良い証となります。逆に教会の中で仲違いしているならば、教会が述べ伝えている教えも、イエス・キリストの素晴らしさも信じてもらえないでしょう。
 今治教会初代牧師伊勢(横井)時雄は講演の中で、キリストの愛に応える方法を三つ語っています。ここではその第一を引用します。「第一、イエスの言葉に我がなんじらを愛せしごとく、なんじらも互いに相愛すべし、これによりて世の人なんじらの我が弟子なることを知るべしとござります。我ら互いに相愛しキリストが我らを愛したまいしごとくそれと毛頭(もうとう)もたがわぬように相愛しますれば、すなわちキリストの愛が世に現れます。 中略 教会はキリストの体です。世人はこの体を見て、その心なるキリストを測ります。」世の中の人は、キリストの体である教会の様子を見て、キリストを判断します。教会が、いがみあい争っていたら、教会のかしらであるキリストも信用されなくなってしまうのです。私たちが神様に喜んでいただき、世の中に良い証をなすために、お互いが固く結び合い、心と思いを一つすることが絶対に必要です。そのために、私たちは繰り返しイエス・キリストの救いの出来事を確かめなければなりません。救いをもたらす神の言葉に聞き続け、祈り続け、聖霊をいただいて、神様の愛に満たされることが必要です。聖書の言葉は、パウロの時代に尊ばれていたギリシアの文学や哲学のような知恵の言葉ではありません。しかし、神様は、聖書の言葉を通して、神の愛、イエス・キリストの愛に満たされ、喜びで満たしてくださいます。聖書の言葉はそのような体験をもたらす力ある言葉なのです。この言葉に常に聞き、祈る中で、私たちは固く結び合い、思いと心を一つにして共に歩むことができるのです。
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2021年09月07日

8月29日 説教要旨

究極の希望

2021年8月29日
聖霊降臨節第15主日(究極の希望)
コリント信徒への手紙一 第15章35-52節
牧師 木谷 誠

 中学生の頃、アンドレ・ジイドの小説「一粒の麦もし死なずば」を読みました。よくわかりませんでした。なぜ、麦の種が地にまかれることが「死ぬ」と表現されるのか?創世記第3章19節では「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」とあります。死ぬことは土に返ることと聖書は考えているのでしょう。新約聖書においては、そこから一歩進んで、イエスもパウロも、地に落ち、土に混じって死んだ種が、新しい命として生まれ出ると言っています。聖書において、新しい命は死の向こう側、死を超えたところにあるのです。種が地に落ちて「死に」、そこから新しい芽が出ていく自然の営みは、死から新しい命が生まれるというなんとも不思議な神の真理を示すたとえとなっています。この不思議な神の真理は論理的に証明できるものではありません。イエス・キリストが十字架にかけられて死んだ後、三日目に復活し、多くの人と出会われた。パウロも出会いました。この不思議な神の真理は、体験によって裏付けられているのです。最初のアダムは命の初めでした。しかし、彼は神に背き、罪を犯して死をもたらす者、死の始めとなりました。最後のアダムであるイエス・キリストは、復活によって、死を超えた新しい命を実現しました。多くの人と出会い、この新しい復活の命を示し、それを分かち合ってくださいます。自然の命の体は死んで土に返り、イエス・キリストによってそこから新しい霊の体が復活します。「新しい霊の体」とはなんでしょうか? 
 「霊」という表現、聖書においては「目に見えない」という意味と共に「神様との交わりにおける」という意味もあります。「新しい霊の体」は、「新しい、目に見えない神様と交わりにおける体」と言い換えることができるのです。イエス・キリストはこの新しい命の体を与える霊、「命を与える目に見えない働き(力)」となられました。イエス・キリストは天に昇られたのち、聖霊が降りました。この聖霊は、目に見えない神の働きです。この聖霊は、私たちに働いて、復活の新しい命の約束を与えてくれるのです。そしてこの約束は、イエス・キリストが再びおいでになる日に完全に実現します。イエスご自身もそうですが、パウロにしても、多くのキリスト者が、苦難の内に人生を終えてきました。しかし、そこで終わりではないのです。イエスが再びおいでになる日、新しい命に復活することができる。新しい命の体をいただくことができる。この約束が私たちの究極の希望です。
 ところでこの約束、今はただの何も与えられていない「おあずけ」なのでしょうか?そうではありません。この約束には、やがて完全に実現する約束を保証する「手付け」があるのです。この「手付け」は、今、神との愛の交わりを感じて歩む日々の経験として与えられます。礼拝を捧げ、聖書を読み、祈りつつ歩む時、日々神様の愛を感じて歩むことができるようになります。これが神様が私たちに与えてくださる「手付け」です。そのようにして、私たちは、苦難の中にあっても怯むことなく、「究極の希望」を確信して歩むことができるのです。
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2021年09月04日

8月22日 説教要旨

その苦しみはいつまでか

2021年8月22日
聖霊降臨節第14主日(忍耐)
ローマの信徒への手紙 第8章18-25節
伝道師 𠮷川 庸介

 キリストに出会い、自分は救われたと確信したその後、まだ苦しみを体験してなぜと問いかける人はいるでしょう。ですがそんな思いを抱く人々に対し、パウロはその苦しみは、将来に与えられる栄光に比べれば大したことがないと教えます。それは、たとえどのような苦しみが与えられたとしても、神が与えてくれたものだから、最後に必ず神は顧みてくださるのだ、という確信を持っているからです。ただ、その時に苦しみに直面する人が、乗り越えられないと思うほどに苦しんでいるのであれば、この言葉ほど無情なものはないのではなかろうか、とも思えます。
 とはいえ、パウロはその言葉を相対化し、他人事のように語っているわけではありません。22-23節の言葉は、パウロの深い共感を表しているのです。被造物は全て、今日という日まで何も苦労することなく過ごすことができたものはいないし、これ以上の苦しみがないとまで言われる産みの苦しみを味わい、うめいていると言うのです。この言葉は、パウロ自身も、自分が受けた迫害などを通し共感したから出た言葉のはずです。
 けど、その共感があっても、人では乗り越えられないものはたくさんあることは変えられない事実です。生きていれば孤独を味わうこと、迫害を受けることもあるでしょう。そもそも生きているならば「死ぬ」という避けることができない苦しみが待っています。それらを考えてみると、私たちはいつまでこの苦しみに味わうのか、この行き着く先に喜びなんてものが本当にあるのかと、疑いすらします。しかも、その苦しみというものは霊の初穂−すなわち神を知り救われたと確信すること−を受けても、なお与えられるというのです。だからこそ、心の中でうめくほどに神に作られたものは救いを求めるとパウロは教えます。ただその言葉は、神を知っても、信じてもなお苦しいことがあるというのならば、いつまで苦しまなくてはならないのか、神を信じるとは何かという問いが出てくることでしょう。
 その反論に対してパウロは、神によって与えられる救いとは目に見えるもの、俗世的な希望ではないということです。神を信じたから自分には何も辛いことは起きない、願ったことが叶うとか、俗世的な希望−目に見えるもの−で十分だと考えることは誤りであり、本当に与えられる喜びは目に見えるものではない−理解できるものではない−というのです。
 呻き声をあげている人に、その苦しみの向こうに神は必ずや理解し難いほどに素晴らしい救いを与えてくれるという言葉をかけることは正しいのでしょうか。苦しんでいる人の苦しみは、共感することはできても、けっしてその人が思っている苦労を背負うことはできません。それなのに、分かったようにきっと救われると言うことは、なんと無情なことかと思うからです。しかし、自分にとっては乗り越えられないくらいほどの経験を、何年か経ってふと思い返すと、あの経験があったから今の自分がいるのだと、確かにあの苦しさが今の心境、感情へと導いてくれたのだと思うのです。ただそれは、決してあの時の自分には理解できないもので、乗り越えた後、いえ、乗り越える最中だとしても、それを経験した後に、この今ある感情を理解し、確かに神は与えてくれたのだとは思えるのです。
 苦しみの中にある時、理解できないものを追い求めるとは中々苦しいものです。ただ、理解できてしまうもの、形あるものを与えられる、とわかれば人はその時点でその程度のものと思い、さらに追い求めるようになるかもしれません。目に見えないものだからこそ、理解できないほどの良い者、という希望も同時に与えられるのです。
 その励ましをもしかするといっときのための口当たりの良い言葉に過ぎない、と思うこともあるかもしれません。しかし、必ずやその思う時を過去に過ぎ去ったものにした時、この言葉が真実であったことを体感するはずです。どうか苦しい中であってもパウロの、そしてキリストの励ましを胸にして進んでいこうではありませんか。
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2021年08月25日

8月15日 説教要旨

キリストに仕える

2021年8月15日
聖霊降臨節第13主日(家族)
コロサイの信徒への手紙 第3章18-4章1節
牧師 木谷 誠


 本日の聖書は、かなり時代遅れのような印象を持たれる方もおられるでしょう。男性優位、奴隷制肯定の問題も感じます。そのような時代の制限もあるように思えますが、この聖書のメッセージの中心は、家族、近い関係にある者同士がお互いを大切にして、愛し合いなさいということです。注目すべきことに、妻と夫、親と子、主人と奴隷、それぞれ、一方的に服従するのでなく、お互いを大切にし合うことが求められています。パウロは、神の前でお互いがお互いを大切にすることを勧めているのです。そしてお互いを大切にすることは、キリストに仕えることに繋がっていくのです。どういうことかと申しますと、マタイによる福音書第25章40節には「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と書かれています。目の前の人を大切にすることは、神を大切にすることとつながるのです。そして神とキリストは一体ですから、神を大切にすることは、キリストを大切にすることにもつながります。神はその目の前の人を深く愛しておられます。神が愛しておられるその人を大切にしたら、神はとてもお喜びになるのです。そしてそれは同時に、キリストに仕えることへも繋がっていくのです。私たちでも、自分の子どもが困っている時、誰かが子どもを助けてくれたなら、自分を助けてくれたことと同じか、それ以上に嬉しいはずです。感謝するはずです。それと似ています。
 それらを踏まえながら、コロサイの信徒への手紙で、パウロは家族という最も近い関係にある人を大切にすること、愛することもキリストに仕えることにつながると教えているのです。
 先に引用しましたマタイによる福音書風に言えば、「私が大切にしている(愛している)この最もあなたの近くにいる人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言うこともできるのです。そのようにしてパウロは、互いに愛し合うこと、支え合うことは、最も近い関係、すなわち家族から始まるのだとコロサイの信徒の手紙で私たちに伝えています。そしてその営みは、目の前の人に支えることを通して、神に仕えること、キリストに仕えることへとつながっていくのです。
 八月、私たちは平和のことを思わずにはいられません。平和はどこから始まるのか、平和は家庭から、家族を愛すること、最も近くにいるものを愛することから始まります。社会の最小単位である家族がお互いを大切に、互いに愛し合い、仕え合う時、そこから真の平和の歩みが始まるのです。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 08:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする