2021年01月26日

1月17日 説教要旨

呼びかけに応えて

2021年1月17日 降誕節第4主日(最初の弟子たち)
マタイによる福音書第4章18-25節
牧師 木谷 誠

 私たち、それぞれに教会に来るようになったのには、いろんな機会があったことでしょう。学校がキリスト教系の学校だった。家族で昔から教会に通っていた。たまたま教会の前を通ったら、賛美歌が聞こえてきた。友達に誘われて行ってみようと思った。興味深かったのは、メンソレータムを買ったら教会の案内があって行ってみたというお話を伺いました。確かにあの会社は当時クリスチャンの会社でした。私の父は、賀川豊彦先生が、集会に来られて、そのお話に感動し、決心カードを書いたら、その後、教会から案内が来て行き始めたということでした。そのようにそれぞれに教会に来るようになった理由はあります。どれも皆とても尊いと思います。
 しかし、その一方で覚えなければならないことは、私たちが教会に来る前に、神様が私たちのことを選んで、教会に招いてくださったということです。私たちが教会を知る前から、神様は私たち一人一人のことをご存知で教会に招いてくださったということです。私たちではなく、神様が先なのです。神様の恵みが私たちの行動の前に働いているのです。
今日の福音書はそのことを伝えています。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがイエスを見つけて、イエスと出会って、弟子になったのではありません。彼らはイエスのことを知りませんでした。イエスが、彼らを見つけて、出会って、弟子に招いてくださったのです。イエスの呼びかけが彼らの応答よりも先なのです。
 この招きに彼らは喜んですぐに従いました。仕事も家族も捨てて従いました。これを読みますと、「すごいなあ、私にはできない」と思われるかもしれません。イエスの呼びかけにはとても魅力があったのでしょう。それともう一つ、イエス・キリストは、それができる人だから、声をかけたのです。仕事も家族も置いて行くことが可能な人だとわかっていたから、ペトロ達に声をかけたのです。イエス・キリストの目は確かです。できそうもない人にできそうもないことを命じたりはしません。できるとわかっておられたから声をかけたのです。そしてイエスは声をかけた後も責任を持って関わってくださいます。イエスは彼らを「人間を取る漁師」にしてくださいます。これまでは、漁師として、魚を相手にしていた彼らが、人間を相手にする仕事を始めるようになるということです。光栄と喜びに溢れた新しい世界、神の国のつとめにイエスは招いてくださるのです。
 イエスは四人と共に神の国のつとめを始めました。それは神の国について教え、神の国について広く伝え、人々の病や悩みを癒す働きです。神の国とは、神様の支配、神様との愛の交わりの生活のことです。イエスを通して、神様の愛を知り、喜び溢れる経験をいただく中で、日々の悩み、苦しみが癒されていったのです。新しく生きる喜び、生きる勇気をいただくことができたのです。
新しい年、私たちもイエスの神の国の教えから豊かな喜び、神様から愛されている喜びをいただいて、励まされ、強められたいと思います。そしてこの愛に応えて、私たちも神の国、神様との愛の交わりの生活の素晴らしさを伝える者として歩んで参りたいと思います。
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2021年01月19日

1月10日 説教要旨

神の覚悟、神の本気

2021年1月10日
降誕節第3主日(イエスの洗礼)
マタイによる福音書第3章13-17節
牧師 木谷 誠

 洗礼者ヨハネのところに洗礼を受けに来たイエスの眼差しはどうであったのでしょうか。ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼です。罪を犯した者が自分を清めるために行うものでした。イエスが悔い改めの洗礼を受けるということは、イエスが罪人の一人になったということです。洗礼を受けに来たイエスを見て、ヨハネはそれを思いとどまらせようとしました。イエスが神の子であることをヨハネはひと目見てわかったのでしょう。「いと高き神の子が罪人として洗礼を受けるのはおかしい。自分こそイエスから洗礼を受けるべきだ。」と。そう考えるのは当然です。ではなぜ、イエスは洗礼を受けたのでしょうか?それはイエスが罪人とつながろうと決心したからです。そして罪人に寄り添い、悩み苦しみを共にし、神の愛を伝えようと決心したからです。さらにその罪人が神にゆるされ、神の子とされるために、罪人を罪から救うために罪人にかわって十字架で命を捧げ、罪の贖いをするためです。イエスはそれほどの覚悟でヨハネの洗礼を受けに来たのです。それほどイエスは本気だったのです。イエスは本当に人間になられたのです。イエスは、食べなければお腹が空く、打たれれば痛い、切れば血が出る生身の人間の姿になられたのです。それは罪の故に様々な悩み苦しみを背負って生きる人間、その人間の生々しい現実に本気で関わる覚悟があったからです。ヨハネのところに洗礼を受けに来たイエスの眼差しには、そんな覚悟、本気が表されていたのではないでしょうか。
 イエスは言いました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」イエスが洗礼を受けることは神のご計画であるからそれに従う。そのイエスの神のご計画に従う覚悟と本気がここにも現れています。この言葉を聞いたヨハネは嬉しかったと思います。イエスが「我々」と言われたからです。いと高き神の子が洗礼者ヨハネを、共に神の救いのご計画を担う仲間と認めた。それがこの「我々」という言葉に表されています。
 そのようにして罪人の仲間となる決断をされたイエスに聖霊が降ります。イエスの働き、その力の源は人間の力ではなく、聖霊です。目に見えない神の力なのです。神の力は、自分のために用いるのではなく、自分を捨てて、神に従う決断をしたイエスに与えられたのです。そしてそのような決断を神はよしとされました。それが「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との天の父なる神からの言葉です。神がイエスの覚悟と本気をお認めになったということです。
 イエスの洗礼の物語には、いと高き神の子が、これほどまでの覚悟と本気を持って、イエス・キリストの姿で来られたのだということが示されています。イエス・キリストに示された神の愛にはこれほどまでに本気の覚悟がある。まさしく命をかけてこの世界を、私たちを愛し、愛し抜くためにイエス・キリストは来られたのです。私たちを愛する神は、これほどまでの本気と覚悟を持っておられるのです。私たちはこれほどまでに深く愛されているのです。この聖書を読んで、このような神の覚悟と本気を示される時、自分が問われます。自分がどれだけ、本気で覚悟を持って自分の現場で生きているだろうか、出会う人と関わっているだろうかと。皆様はいかがでしょうか?私は、自分の覚悟と本気がどれほどみすぼらしく粗末であるかを思い知らされ、恥ずかしくなりました。逆にそのような私をこれほどまでに本気で覚悟を持って愛してくださるイエス・キリストへの感謝と尊敬がますます大きくなりました。私たち、この愛にお応えするにはあまりに粗末な罪深い者ですが、それでも神様は私たちが神様の愛に感謝し、応えることを喜ばれます。そしてイエスに降してくださった聖霊を私たちにもくださいます。その時、私たちは、それぞれ与えられた場でそれぞれの個性を生かして神様にお仕えすることができるようになるのです。
 この愛に感謝し、私たちなりに精一杯応えましょう。たとえそれが、立派なかっこいい覚悟の姿でなくてよいのです。おっかなびっくり、及び腰でも良いのです。そのとき、イエス・キリストに注がれた聖霊が私たちにも与えられることでしょう。そのとき、私たちも神様から委ねられた務めを果たす力を与えられて、神様のご栄光を証する者としてこの年も歩んでいけることでしょう。
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2021年01月13日

1月3日 説教要旨

あなたは慰められる

2020年1月3日 降誕節第2主日(エジプト逃避)
エレミヤ書第31章15-17節
マタイによる福音書第2章13-23節
牧師 木谷 誠

 与えられたマタイによる福音書のイエス・キリストの誕生物語はとても悲しい事件で締め括られます。東方の占星術師たちは、天使のお告げを受けて、ヘロデのもとには帰りませんでした。これを知ったヘロデは激怒し、ベツレヘム周辺の二歳以下の子どもを皆殺にしてしまいました。これがヘロデ王による幼児虐殺です。この物語を読むたびに私はとても悲しくやりきれない気持ちになります。イエス・キリストは世の罪人の身代わりとして命を捧げ、犠牲の子羊となられました。そのイエス・キリストの身代わりとなって犠牲になったベツレヘム周辺の子どもたちがいるのです。正直、「この物語がなかったら」と思ったことが何度もあります。マタイはこの物語を、それを読むものが心を痛めると知りつつ、書き残しました。その意味を確かめたいと思います。
 その意味の一つは、旧約聖書の預言の成就です。ヘロデの陰謀に代表される人間の欲望(権力欲)は膨張し、尊い命を奪い、大きな悲劇をもたらしてしまうということです。人間の罪の恐ろしさをこの物語は指摘しています。
 二つ目は、人間の企て、陰謀は、神の救いのご計画を止めることはできないと言うことです。ヘロデの陰謀は、イエス・キリストを殺害して、自分の権力を守ろうという計画でした。たくさんの兵隊、武器、大きな屋敷、ヘロデの権力は目に見えます。とても強大です。神の救いのご計画は目に見えません。目に見えるしるしは無力な生まれたばかりの赤ん坊と貧しいヨセフとマリアです。人の目から見たら、ヘロデの方が強く見えます。しかし、神の救いのご計画はヘロデの企てを超えて力強く働くのです。私たちは世の動きに惑わされないで、神の救いのご計画への信頼を新たにしましょう。
 しかし、割り切れない思いは残ります。なぜ罪もない子どもたちが死ななければならないのか、神はなぜそれを放置しておられるのか?この疑問は歴史の中で数多く起こって来ました。今も起こっています。なぜ、新型コロナウイルスが蔓延するのか?人間の奢り昂り、罪の結果?確かにそう言う部分もあるでしょう。でもそのためにこれほど多くの人たちが犠牲にならなければならないのか?これはヘロデの野望のため、罪のない子供たちがなぜ殺されなければならなかったのかと言う問いと本質は同じです。この問いは歴史の中で何度も繰り返されて来た歴史の謎、不条理です。
 残念ながらこの問いへの答えは出せません。人生には、歴史には、人間に答えの出せない問いが存在することを私たちは認めなければなりません。それに答えを出せると思うことは人間の思い上がりです。しかし、希望はあります。人間が希望を見出せないところでも神は希望をもたらしてくださいます。その鍵はエレミヤ書第31章16-17節の言葉です。我が子を失った母、最も痛ましい姿です。神はその母に対して、泣き止みなさい、涙を拭なさい、あなたの苦しみは報いられる、あなたの未来には希望があると告げます。人生の不条理に私たちは打ちのめされます。無力です。しかし、これで終わりではありません。希望があります。その希望として、イエス・キリストがエジプトから帰って来ます。そして神の愛を伝え、十字架にかかり、復活されます。そして私たちの罪をゆるし、神との永遠の愛の交わりを実現されます。世の終わりに再び来られ、死者は復活し、新しい命をいただいて、主の前に永遠に共にいることができます。その時には、かつてヘロデによって命を奪われた幼子たちも新しい命をいただいて、母たちと再び会うことでしょう。その時に、母たちの苦しみは報いられます。歴史には、説明のつけられない悲しみが存在します。不条理です。罪の結果と言うには痛ましすぎて、希望を見出すことができません。しかし、そこに神は希望をもたらしてくださいます。それだけではありません。神はそのような不条理に打ちのめされる者に寄り添い、悲しみを共にする者としてイエス・キリストをこの世に送られたのです。なぜこんなことが起こるのか?その問いの前に立ち尽くし、呆然とする者に寄り添い、苦しみと悲しみを共にする神としてイエス・キリストは来てくださいました。インマヌエル、我々と共にいてくださる神は、イエス・キリストの姿で来られました。そして今度こそかつて自分の身代わりになった幼子たちを含め、全ての人たちに永遠の命をもたらすための十字架にかかるためにイエス・キリストは来られたのです。イエス・キリストご自身の身代わりになった幼子たちに永遠の命をもたらすために、全ての不条理に打ちのめされる者たちに慰めと希望をもたらすために、「あなたは慰められる」とのメッセージを携えて、イエス・キリストは来られました。そしてもう一度、世の終わりにイエス・キリストは来られます。その時には、全ての不条理の問いは、圧倒的な喜びの前に消えてしまいます。マタイが、美しいクリスマス物語の最後を、なんとも後味の悪い、切ない物語で締めくくる意味はそこにあるのではないでしょうか。そしてこの物語があるからこそ、私たちは新しい年にも慰めと希望を期待して歩んでいくことができるのです。
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2021年01月05日

12月27日 説教要旨

誰がためにその喜びはあるか

2020年12月27日 降誕節第1主日(東方の学者たち)
マタイによる福音書 第2章1-12節
伝道師 𠮷川庸介

 救い主の存在を真っ先に知らされるのは、当然その存在を信じている者だろうと考えることでしょう。ところが、救い主であるイエスの誕生をまず知らされた占星術の学者達は、救い主がやってくることを知らない異邦人でありました。しかし彼らは、その知らせを喜び、生まれたイエスのところへと贈り物を持っていこうとします。そんな彼らの次に、喜ばしい知らせについて伝えられたのは、救い主の存在を知っており、また信じていたヘロデ王とエルサレムの人々でした。しかし、彼らは喜びではなく不安を抱き、ヘロデ王などは、殺害を試みております。なぜ喜びと不安を抱く立場が、実際にはその逆となっているのかと考えていますと、ふと大学時代の論議を思い出しました。
 まだ、私が大学に入学したての頃であったと思います。私は、世界に終わりがやってくる日に、キリストを信じない者は救われないのかという質問を投げかけたことがあります。その質問への答えは、それは、カルト的な考え方に過ぎない、神は全てを愛してくださっている、というものでした。しかし私は、ヨハネ福音書には「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」とあるが、「全て」は信じる人だけであるのか、選別された状態の人間がいるように思え、胸につっかえを覚えたのです。
 これに併せて、現代の私たちのことを考えてみたいと思います。私たちは救い主の存在を信じ、いつの日かやって来る最後の日に神の国へと行くことができると口では信じていると言います。しかし、もしその最後の日が現実として間近に迫った時、それは私たちが今、営んでいる生活、これまで積み重ねてきた努力や人間関係、それら全て捨てることとなったとしても喜びと共に受け入れることができるのでありましょうか。どこかで、現状や積み上げてきたものについて惜しいと思う気持ちが、救い主を待ち望む純粋な思いの中に、影を落とすことはないでしょうか。また、救い主の誕生を心から喜べず、恐れさえを抱いた人は、最後の最後に反旗を翻すような者であったことでしょう。その時思ったのであります。実際に、待ち望むと言うことは簡単であるが、その本心は偽りであり、自分はヘロデ王であり、エルサレムの人々に過ぎないと思たのです。
 そう考えた時に、占星術の学者はまったく違う世界で生きており、その世界の中で完結し、彼らなりの信じるものがあったはずです。つまり、元々は占星術の学者は、救い主を知る機会など一切なかったということに再度気がつきました。そのような元々は何も知らなかった人々に対して、真っ先に伝えられたことは、救いとは誰に対してでも当然与えられるものであるということ、そして誰一人として救いの手のひらからこぼれ落ちないようにと神が人を愛そうとする覚悟があらわれているのではないかと思ったのです。
 考えてみれば私たちは誰しもが救い主の存在など知らない、占星術の学者達のようなものでした。しかしある時、救い主の存在を確かに信じ、喜ぶことを知ったのです。いったい誰のために、イエスはこの世に来られたのか、それは限られた人のためではなく、信じる者、信じない者に限らず全ての者にその手を差し伸べるためでありました。その事実があることを思い祈りつつ、神の愛を確認していきたいと思うのであります。
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2020年12月30日

12月20日 説教要旨

恵みに感謝して応える

2020年12月20日 待降節第4主日・クリスマス礼拝
テトスへの手紙 第2章11-15節
牧師 木谷 誠

クリスマスおめでとうございます。新型コロナウイルスの影響で世界全体が揺り動かされています。本当にクリスマス礼拝をみんなで揃ってできるのか?とても心配でした。なんとかクリスマスを迎えることができてとても嬉しいです。聖書の言葉を通して、クリスマスの喜びを分かち合いましょう。
 「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」とは何でしょうか?それはイエス・キリストがこの世界に来てくださったことです。神は、ご自身の愛を、この世界に、私たちに伝えるためにイエス・キリストをお与えになりました。高い天から見守るだけの愛ではなく、地上に降りてきて、人々と共に生きるためでした。神の国について教え、苦しむ人々に寄り添い、寂しい人の友となり、病気に苦しむ人をいやすためにイエス・キリストは来られました。そして罪深いわたしたち人間が神様にゆるしていただくために、イエス・キリストは罪の償いとしてご自分の命を捧げました。それにより、私たち人間は、罪をゆるしていただき、神様の愛する子どもとしていただくことができたのです。神の愛は、言葉だけではなく、行いを伴います。具体的で行動的な神の愛がイエス・キリストの生涯に示されています。これが救いの恵みです。そしてこの恵みはすべての人に与えられます。分け隔てはありません。この恵みをご一緒に確かめ、喜び、感謝しましょう。
 そして、わたしたちはこの恵みに応えていくことが求められています。人間は、もともと神様の愛と恵みに応えて生きる者として造られているからです。ちょっと難しい言葉ですが、これを「応答可能存在」と呼んだりします。私たちの身の周りには様々な誘惑があります。お金、名誉、地位、様々な物、快楽、神様を忘れてしまいそうな誘惑がいっぱいです。どうしたら誘惑に引っ張られないで、神様に喜ばれる歩みに止まることができるでしょうか?
 おかしなことを言います。誘惑に勝とうとするよりも、誘惑から逃れることです。主の祈りには、「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」とあります。またコリンとの信徒への手紙第一第10章13節には「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。 」とあります。誘惑は打ち勝つものでなく、会わないようにするもの、逃れるものであると聖書は言っています。それくらい誘惑はとても恐ろしいものなのです。
 そして誘惑から逃れるためには、一番素晴らしいものをしっかりと繰り返し確かめることです。それはイエス・キリストによって実現した「救いをもたらす神の恵み」です。イエス・キリストによって実現した「救いをもたらす神の恵み」にまさるものはありません。私たちは時々、一番大切なことを忘れて、そんなに大切でないことに心を奪われてしまいます。そして大きな過ちを犯してしまいます。クリスマスの大きな喜びをご一緒に確かめることが、様々な誘惑から離れる最も良い方法です。そしてこの大きな恵みに応えて、神様に喜ばれることを常に求めて生きることこそ、クリスマスに示された神様の恵みに対する正しい応答、「応え」なのです。神様の恵みを常に確かめ、感謝して、応える。クリスマスにこのことをまず確かめたいと思います。そしてイエス・キリストは再びこの世界に来てくださいます。救いを完成してくださいます。この世界が、どんなに揺れ動いても、この約束は変わりません。この約束を信じて、希望を持って歩んでいきましょう。クリスマス、おめでとうございます。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 21:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする