2021年08月21日

8月8日 説教要旨

キリストに仕える

2021年8月15日
聖霊降臨節第13主日・(家族)
コロサイの信徒への手紙 第3章18-4章1節

 本日の聖書は、かなり時代遅れのような印象を持たれる方もおられるでしょう。男性優位、奴隷制肯定の問題も感じます。そのような時代の制限もあるように思えますが、この聖書のメッセージの中心は、家族、近い関係にある者同士がお互いを大切にして、愛し合いなさいということです。注目すべきことに、妻と夫、親と子、主人と奴隷、それぞれ、一方的に服従するのでなく、お互いを大切にし合うことが求められています。パウロは、神の前でお互いがお互いを大切にすることを勧めているのです。そしてお互いを大切にすることは、キリストに仕えることに繋がっていくのです。どういうことかと申しますと、マタイによる福音書第25章40節には「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と書かれています。目の前の人を大切にすることは、神を大切にすることとつながるのです。そして神とキリストは一体ですから、神を大切にすることは、キリストを大切にすることにもつながります。神はその目の前の人を深く愛しておられます。神が愛しておられるその人を大切にしたら、神はとてもお喜びになるのです。そしてそれは同時に、キリストに仕えることへも繋がっていくのです。私たちでも、自分の子どもが困っている時、誰かが子どもを助けてくれたなら、自分を助けてくれたことと同じか、それ以上に嬉しいはずです。感謝するはずです。それと似ています。
 それらを踏まえながら、コロサイの信徒への手紙で、パウロは家族という最も近い関係にある人を大切にすること、愛することもキリストに仕えることにつながると教えているのです。
 先に引用しましたマタイによる福音書風に言えば、「私が大切にしている(愛している)この最もあなたの近くにいる人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言うこともできるのです。そのようにしてパウロは、互いに愛し合うこと、支え合うことは、最も近い関係、すなわち家族から始まるのだとコロサイの信徒の手紙で私たちに伝えています。そしてその営みは、目の前の人に支えることを通して、神に仕えること、キリストに仕えることへとつながっていくのです。
 八月、私たちは平和のことを思わずにはいられません。平和はどこから始まるのか、平和は家庭から、家族を愛すること、最も近くにいるものを愛することから始まります。社会の最小単位である家族がお互いを大切に、互いに愛し合い、仕え合う時、そこから真の平和の歩みが始るのです。
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2021年08月13日

8月1日 説教要旨

和解 平和 聖霊

2021年8月1日
聖霊降臨節第11主日・平和聖日(宣教への派遣)
使徒言行録 第9章26-31節
牧師 木谷 誠

 本日は教団の定める平和聖日です。八月、私たちは、76年前の戦争、第二次世界大戦のことを思わずにはいられません。広島、長崎に原子爆弾が投下されました。8月6日、空襲によって、今治の町は大きな被害を受け、尊い命が失われました。その一方で、私たちの国は大きな被害をアジアの近隣諸国に与えました。戦争は、夢も希望も愛も志も全てを呑み込んで、大きな悲しみを、傷を、恨みを残してしまいました。今もその爪痕が残っています。私たちはこの戦争の爪痕を、今も悲しみ、傷の癒えない人々がいることを忘れずに、平和への思いを新たにしなければならないのです。
 そんな平和聖日に与えられた聖書は使徒言行録でした。どうしてでしょうか?それはここに記されているのは、和解の物語だからです。誰と誰との和解でしょうか?サウロと弟子たちの和解です。サウロは、熱心に主の教会を迫害するユダヤ人の一人でした。最初の殉教者ステファノの殺害にも賛成していましたし、イエスの弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで熱心に活動していました。弟子たちの中にはそのことをよく知っている者もいたのでしょう。主の弟子たちを迫害したサウロが、いきなり主の弟子となって、仲間に加わろうとしてもそれは簡単なことではありませんでした。人間の感情はそう簡単に切り替わるものではありません。かつてのひどい仕打ちをゆるし、仲間として受け入れ、信頼する。ゆるすこと、受け入れること、信頼すること、すなわち和解。それは本当に難しいことだと思います。和解の実現のためには仲介者が必要です。その仲介者がバルナバでした。バルナバは対立する者たちの目を、神の御業へと向けました。人間を見るのではなく、その人間の背後にある神の働きに心の目を向けさせたのです。かつて主の弟子たちを憎み、激しく攻撃したサウロを主イエスは愛して、サウロの罪をゆるし、新しい者としてくださった。そのような神の御業へと弟子たちの心を導いたのでした。そして、かつての敵をゆるし、受け入れ、信頼することこそ、神の喜ばれることであると弟子たちに納得させたのでした。そこから真の和解が実現したのでした。このように真の和解は、人を見ているだけでは実現できません。その背後で生きて働かれる神の御業を見なければならないのです。その神の御心に聴くことによって真の和解は実現するのです。そこから平和へとつながっていくのです。和解を実現するためには、仲介者が必要です。根本的な仲介者、和解をもたらす者は、主イエス・キリストです。イエス・キリストは、神と人との和解の実現者です。さらに人と人との和解も、イエス・キリストによって実現するのです。イエス・キリストは、対立する者の両方が和解し、愛し合って共に歩むために、十字架にかかってくださいました。その和解を実現する原動力は、私たちが神の御業へと心を向け、聖霊をいただくところにあるのです。
 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」ここでの「こうして」がとても気になっていました。「こうしてって、どうして?」。ギリシア語を話すユダヤ人たちが激しくサウロを憎んでいました。そのサウロを他所へ逃したから、すなわち「揉め事の種を他所に行かせた」からでしょうか?そんな感じもちょっとします。揉め事の当事者がいなくなれば、揉め事は消えることでしょう。でもそれは長続きしません。本当の解決にはなりません。真の解決のために、もっと大切なことは、神の御業に心を向けることです。自分と合わない人をも神は愛して用いてくださっている。同じ神に愛されている者同士、和解を神が願っておられる。求めておられる。喜んでくださる。そこに心を向けることが真の解決をもたらすのです。そのような和解の実現のためにはとても大きなエネルギーが必要です。それをもたらしてくださるのが、聖霊の働きなのです。真の和解の実現のために私たちは聖霊の導きを求めていきたい者です。そのようにして、教会は、平和(和解)を保ち、神を畏れ、聖霊の慰めを受けて、「平和の道具」として歩んでいくのです。
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2021年08月07日

7月25日 説教要旨

恵みを知り生まれかわる

2021年7月25日
聖霊降臨節第10主日(憐れみの福音)
コリントの信徒への手紙二 第5章14-6章2節
伝道師 𠮷川 庸介

 キリストの恵みによって生かされるというその言葉を、パウロは「神に罪を赦されたと知り生まれ変わること」と教えます。私たちは、罪を持っていると言われても理解し難いことでありますが、それはこの世の価値観に照らし合わせれば、という言葉で無理やり肯定してきた自分の弱さ、といったものでありましょうか。絶対的に正しい者―すなわち神―を前にした時、裁かれるに違いないことを指していると私は思っています。人が意識的にしろ、無意識にしろ犯してしまい、ある種の苦しさと葛藤をイエスが自分の体を犠牲にして帳消した、赦そうとしてくれる方がいるということ、そしてそのことを自覚し、新しい生き方を始めることをパウロは教えているのです。
 パウロは「一人の方が全ての人のために死んだ。それは全ての人が死んだということである」という不思議な言葉を投げ掛けます。これは自分の生き方や考え方に別れを告げて、新しい一歩を踏み出す自分へと生まれ変わったという意味であります。すなわち、イエスが代わりに背負うために死なれたという事実により、私たちは再び神を前にして顔を向けられるようになった、ということです。これは、和解とも言えるでしょう。しかも、本来は対等な立場に立つことで、お互いが同じテーブルに着くことで可能になる和解を、神の方から申し出たというところが大きな点です。双方がとても歩み寄れないでいたものを、神の方から乗り越えて手を差し伸べたことを意味しているからです。それをパウロは確信したからこそ、それまで築き上げていた全てのもの、それはこの世の価値観に照らし合わせれば良いとされるものを「塵あくた」にすぎないと言い、イエスの生涯を伝えることを使命と考えるに至ったのでした。
 ですが、実際のところ罪を赦して背負ってくださったという言葉を、どれほど実感しているのでありましょうか。パウロが、以上のような内容を伝えようと手紙を作ったのは、それを理解していない人々がいるので、何とか伝えようとすることが目的であったのです。パウロは、言い尽くせないほどの、罪を消すということが与えられているのだから、その喜びに動かされて働こうではないかと勧めています。ですが自分のことを思い返すと、結局は、キリストが私のために死んだのだということを、差し迫った我が身のこととして大きな恵みであると体感することがないということがどこかであるものです。結局あなたはその喜びをどれほど我が事と思えているのか。その喜びに基づかない奉仕や働きは虚しいものではないかと、時を超えてパウロは伝えているのです。
 それに当てはまるという者に対しても、なおパウロは神の協力者として、神の使者となりなさいと勧めています。それは、信じきれず、独りよがりが入り込んでも、それすらも神がご存知であり、その上で私たちに手を伸ばしてくださっている事実を信じなさいと、言っているのです。ある神学者は、結局神が求められたことは、あなたは、神が赦してくれる事実を信じるか、というその一点であると言います。ただその事実が、かつてそれを知らなかった自分に別れを告げて生まれ変わらさせるのです。どうかその恵みに私たち共に祈り求めたいと思うのです。
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2021年07月29日

7月18日 説教要旨

憐れみの器

2021年7月18日
聖霊降臨節第9主日(異邦人の救い)
ローマの信徒への手紙 第9章19-28節
牧師 木谷 誠

 聖書には時々、「えー、そんな無茶な、どうして?」と言いたくなるような物語が出てきます。例えばイサクの双子の息子、エサウとヤコブがいます。神様はイサクの後継者に兄エサウではなく弟ヤコブを選びました。理由は明確ではありません。また、出エジプト(イスラエルのエジプト脱出)の物語において、神はわざとエジプトの王ファラオをかたくなにしてモーセの言うことを聞かなくしました。どうしてでしょうか?
 これに対するパウロの答えは実に単純です。神は私たちを造った方(創造者)です。私たちは神から造られた物(被造物)です。神が陶器師ならば、私たちは陶器です。陶器は陶器師に何も言うことはできません。造られたものは、造った方に対して何を言うこともできないのです。ただ従うしかないのです。造られたものは造った方に従う。被造物は創造者に従う。聖書の論理は実に厳しい論理です。それくらい神には絶対的な自由と主導権があるのです。
 しかし、神はその絶対的な自由と主導権を憐みの心で用いました。本来であれば、憐みに値しない者、怒りの器を憐れみの器としてくだっさったのです。ここでパウロは「怒りの器」として真っ先に自分自身を考えています。彼はキリストを信じる者を熱心に迫害しました。彼は神の敵、キリストの敵でした。普通に考えればパウロは神の敵ですから、神の怒りを受けて滅びるはずでした。しかし、神はそうはなさいませんでした。怒りを受けて当然の者を神は憐れみました。そして神は寛大な心でパウロをゆるし、ご自身の憐れみを伝えるために用いてくださったのです。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテへの手紙一第1章15節)」とある通りです。イエス・キリストによって示された神は、罪人の罪をゆるし、その罪を代わって引き受け、命をささげ、罪人を神との愛の交わりへと招く神です。そして「怒りの器」を「憐れみの器」としてくださるのです。
 ところで「器」には二つの機能があります。内容を受け入れる機能と内容を伝える機能です。器は内容を受け入れます。例えばコップは水という内容を受け入れます。水の器です。そして「器」はその内容を誰かに伝えます。器には受け入れる機能と伝える機能、器には二つの機能があるのです。同じように「憐れみの器」は神の憐れみを受け入れます。そして「憐れみの器」は、その憐れみを誰かに伝えます。どちらが欠けても「器」の本来の働きを満たすことにはなりません。パウロは、そしてパウロの同労者たちも、神の憐れみを受け入れ、それを多くの人々に伝えました。特にユダヤ人以外の異邦人に神の憐れみを伝える「憐れみの器」として用いられたのです。
 私たちもイエス・キリストによって神の憐れみ(愛)をいただいています。わたしたちも「憐れみの器」とされているのです。神の憐れみ(愛)を受け入れることができます。憐れみの器として、私たちも神の憐れみ(愛)を伝えます。そのようにして私たちも「憐れみの器」として神様に用いていただくことができるのです。
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2021年07月20日

7月11日 説教要旨

悪霊との戦い

2021年7月11日
聖霊降臨節第8主日(生活の刷新)
使徒言行録 第19章11-20節
牧師 木谷 誠

 本日の聖書では、病の癒やし、悪霊との戦いの物語が記されています。パウロはまるでイエスのように人々を癒し、悪霊を追い出していました。それは厳密にはパウロが行っていたのではありません。パウロを通して、神が行っていたのです。病に苦しむ人、悪霊に苦しむ人(おそらくは発作性の病気に苦しむ人)への神の愛を伝えるためにパウロは一生懸命に働いていたのでした。パウロは、自分を売り込むため、自分が名誉や利益を得るために働いていたのではありません。彼は、神の栄光を表すために働いていたのです。そのようなパウロを神は祝福し、各地で目覚ましい業をさせていたのでした。
 そこにユダヤ人の祈祷師たちが登場します。彼らは祭司の息子たちでした。彼らもまたイエスの名によって悪霊を追い出そうとしましたが、うまくいきませんでした。それどころか悪霊たちの逆襲(?)を受けて、ひどい目に遭ってしまいました。どうしてでしょうか?
 理由は簡単です。おそらくこの祈祷師たちは自分を売り込もうとして、自分の利益のために悪霊を追い出そうとしたのでしょう。神様は人の心を見られます。そのような心を持つ者たちを神様は決して祝福なさいません。当然、彼らに悪霊を追い出せるはずもありませんでした。自分を捨てて神の栄光のためにひたすら尽くしたパウロとの違いは明白だったのです。彼らの失敗は、イエスの偉大さをますます広めることとなりました。そして多くの人々が、悔い改めて、イエスに従いました。多くの人たちはこれまでの人生の歩みを悔い改めました。その悔い改めは自分の利益のために働くのではなく、神の栄光のために働くという人生の新しい歩みでした。そして彼らも悪霊との戦いに加わっていったことでしょう。
 ここでもう一つ大切なことがあります。それは誰と戦うかということです。イエスは、そしておそらくパウロも、悪霊と戦う時、悪霊に取り憑かれている人と戦っていたのでありません。悪いのは人ではない。その人の内にある神にそむく力なのです。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソの信徒への手紙第6章12節)とあるとおりです。そしてそのような戦いを支える力は、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソの信徒への手紙第6章11節)です。「神の武具」とは、自分の栄光や利益ではなく、神の栄光が現れるために自分を背後に退ける勇気、そして神に依り頼む信仰なのです。私たちも神の栄光を今治の町に伝えるために遣わされます。それは悪霊との戦いになることがあります。その時にこのような信仰と勇気を思い出して歩んで参りましょう。
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