2022年08月29日

7月24日 説教要旨

私たちが住む神の家

2022年7月24日 聖霊降臨節第8主日・(神からの真理)
テモテへの手紙一 第3章14-16節
伝道師 𠮷川 庸介

 この手紙はエフェソの町での教会運営に対して苦心していたテモテへの励ましが記されており、この3章には主に監督や執事、つまり教会教師や教会を運営する役員という立場について書かれています。組織の運営や監督と言われると、その人が社会でどれだけ実績を持っているかとか、どんな地位を持っているかということが思い浮かびます。ですが、ここでは一人の人を愛し続けよ、お酒に溺れない、乱暴を働かず、がめつくもなく、自分の家庭を大切にするそんな人でなくてはならないのだ、ということが並んでおります。どれだけお金を持っているか、どれだけの社会的な地位にあるか、どんな人と交流があって・・・ということではなく、どれだけあなたは教会の理論、いうなら聖書に書かれていることに耳を傾けてイエスに繋がっていられるか、ということが問われているのです。
 実際のところパウロが伝えようとしていたことは、教会とは、地上にあって主の体でもあるこの教会とはなんであろうか、組織されて運営されるにあたり、何が大切なのか、ということが核心としてあることでしょう。
 ただここで注意したいことは、ここでパウロがいう教会は現実世界で建てられて運営されている教会のことだけを指していないという点です。教会とは、神の独り子であるイエス・キリストに捕らえられ、首を垂れて自分の罪を告白する人々の間、「神の国はあなたがたの只中にある」という言葉があるように、そこに宿るのです。その只中にある教会は、イエスが私たちのために死なれ、私たちは今ここに生きることを許され、そして義とされている人々によって成されています。
 そこは、15節にも出てくるように、神の家であり、神を父とし、イエス・キリストをその独り子として仰ぐ共同体であり、パウロが「真理の柱であり土台である生ける神の教会」と語っている通りです。そこにあって大切なのが信心の秘められた真理であります。「キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」と賛美されているように、これを確信として、いつも中心に据えておかなくてはいけないのでしょう。この賛美に言い表されている真理は、強いられて行われるものではなく、行わずにはいられないことが大切です。そこで大切になることは、教会の中心にいるのは人ではなく神でなくてはならないのです。
私たちは、時に世間との乖離に苦しみながらも、この教会という場所、人々の間にある教会ではなく、そこを端として建てられた目に見える教会へと留まります。その中心に据えられているものが何よりも大切であると考えているからであるはずです。しかし、もしその苦しみから逃れようと世間の評価や考え方によろうとするならば、全く神から出てこないものによるもので、形だけを保っているにすぎない組織へと陥ってしまっていることを意味するからです。それは、人によって運営され、神による御旨を問いかけることをやめてしまった伽藍堂でしかないというわけです。
教会に生きる私たち自身、常に地上の価値観と天上の価値観の間で揺れ動かなくてはなりません。その揺れ動きが、時として自分の立ち位置を曖昧なものとし、自分がどこにいるかを分からなくさせるでしょう。
 でも忘れてはいけないこと、心しておかなくてはいけないだろうと思うことは、そこにいる牧師も役員も奉仕者も、それ以外の人であろうと、皆もとは欠けたところを持つ罪人であるということでしょう。そうであったけれども、キリストの十字架によって罪赦され今ここにいることができているという事実があるはずです。私たちは、今あるこの神の家は、神を中心に据えているのだろうかといった中心にあるべきものを省みつつ過ごしていくことが大切なのではないでしょうか。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 10:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

7月17日 説教要旨

御心が行われますように

2022年7月17日 聖霊降臨節第7主日・(パン種に注意せよ)
ルカによる福音書 第22章39-46節
牧師 木谷 誠

 主の祈りのメッセージをお伝えしています。本日は三番目の祈り「御心の天になるごとく、地にもなさせたまへ」についてです。「御心が行われますように」と題してお話しさせていただきます。
 主の祈りの中での「御心」とは神の意志、「天」は神のおられる所、「地」とは私たちの生活するこの世界を意味しています。すなわちこの祈りは「神の意志が、神様のところで行われているように、私たちの世界でも行われますように」という願いです。ここでも前の二つの祈りと同じく自分よりも神のことが優先されています。
 本日の聖書はイエスが捕らえられて、十字架にかけられる前のイエスの祈りです。「ゲツセマネの祈り」とも呼ばれます。そこでイエスは、十字架の苦難と死を前にして、自分の願いよりも神の御心を優先しています。イエスは、十字架の死、すなわち自分の命が奪われるような運命であっても、それが神の御心ならば受け入れるという心を示されました。主の祈りでも同じです。このようにして主の祈りは私たちの神に対する姿勢、神に喜ばれる生き方を教えているのです。
 また、当たり前のことですが、願うということはまだ実現していないということを意味しています。実際私たちの生活するこの世界には、今も多くの地域で戦争が続いています。またさまざまな不正行為や犯罪、抑圧が後を絶ちません。痛ましいニュースが毎日のように聞こえてきます。神の意志が実現しているとは言い難いのがこの世界の現状です。その原因は私たちの罪と弱さです。これは「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」というそれ以前の祈りについても当てはまります。「御心が行われますように」と祈る時、まだ私たちがそれを実現できていないことを自覚します。そしてそれは私たちの罪と弱さが原因であることを認め、悔い改め、へり下った心で、神の助けを願って祈ることが大切です。
 同時に、願うということは、今は実現していなくても、それを実現する希望があるということをも意味しています。さまざまな困難があります。出口が見えない問題に思えます。しかし、この祈りを祈ることによって、私たちが生活する世界に、神の意志が実現することを信じて、希望を持って取り組むことができます。この祈りを祈る時、私たちは、神の意志がこの世界で実現できるように、希望をもって神の御心(神の意志)を求めて生きることができます。それは具体的にはどういうことでしょうか?それは日本キリスト教団信仰告白にあるように「愛のわざに励む」ことです。
この世界にはさまざまな問題があり、解決の糸口が見えません。しかし、この祈りを祈る時、私たちは希望をもって、神の御心の実現のために生きることができるのです。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 10:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

7月10日 説教要旨

御国が来ますように

2022年7月10日 聖霊降臨節第6主日・(神の計画)
ルカによる福音書 第12章35-40節
牧師 木谷 誠

 主の祈りを学んでいます。本日は、第二の祈り「御国が来ますように」です。ここでも神について祈ります。自分ではありません。私たちは自分よりもまず神のことを優先するように求められているのです。私たちの神に対する態度はどうあるべきなのか、主の祈りを通して、教えられます。
「御国が来ますように」は、直訳すると「来たれ、あなたの国(支配)」となります。自分の願い事よりも先に、神の国(神の支配)が来るようにと願うのです。では私たちは「どこに」神の国(神の支配)が来て欲しいのでしょうか?それは私たちのこの世界です。皆様もご存知の通り、この世界には、多くの争い、不正があります。解決の糸口の見えないたくさんの問題があります。この世界には神様の御心に背くようなことばかりが目につきます。そして心が痛みます。長い歴史の中で、人間はそのような過ちを繰り返してきました。「御国が来ますように」との祈りは、そのような多くの問題、罪にまみれたこの世界に、神の国(神の支配)が来るように願うことを教えているのです。
 それがどうしたら可能なのでしょうか?人間の知恵と力では実現不可能のように思えます。残念ながら歴史が証明しているように思えます。しかし、信仰者は、自分には不可能なことでも神が実現してくださることを信じることがゆるされています。この世界に神の国(神の支配)が来ることを実現してくださるのは神であり、神が遣わすイエス・キリストです。世の終わり、神が定められた時、イエス・キリストが再びおいでになって、救いを完成してくださいます。これを「キリストの再臨」と言います。この再臨のイエス・キリストが世界に救いを完成し、神の国を実現してくださるのです。このことを神は約束してくださいました。神は真実な方ですから、約束は必ず実現してくださいます。「御国が来ますように」との祈りは、この神の真実な約束に裏付けられています。だから私たちは確信をもって祈ることができます。この祈りを祈ることによって、私たちは、この世界に希望があることを確かめるのです。初代教会の切実な祈りの合言葉の一つは「マラナ・タ」でした。これは「主よ、来てください」という言葉です。人間世界が様々な罪で満ちていて、その解決が人間には不可能であるように思えるのは今に限ったことではありません。パウロの時代、初代教会の時代も様々な迫害や社会問題もありました。世界は苦しみにうめいていました。初代教会の希望は主イエス・キリストが再び来て救いを完成し、神の国を実現してくださることだったのです。
 「御国が来ますように」との願いを実現してくださるイエス・キリストに対して、私たちができる「身支度」はなんでしょうか?それは「目を覚ましている」こと(38節)、「用意している」こと(40節)です。これらはあくまでも「比喩」、「喩え」です。具体的には、何よりもこの主の祈り「御国が来ますように」をその意味を理解して毎日繰り返し、繰り返し祈ることです。
 先程申し上げた通り、「マラナタ」と言う言葉は、「主よ、来てください」という意味です。でもこの言葉は区切り方によって意味が変わるのだそうです。詳しいこととは省略しますが、「マラナタ」だと「主よ、来てください」です。これを二つに区切って「マラン アタ」と読むと「主は 既に来られた」となると言うのです。このように「マラナタ」と言う言葉には、二つの意味があります。「主よ来てください」と言う意味と「主は既に来られた」という意味です。神の言葉には力があります。「主よ来てください」と繰り返し祈る時、私たちは「主は既に来られた」ということを実感できるようになるのです。初代教会の人々は、お互いに「マラナタ」と呼びかけあって、共に祈る中で、「マラン アタ」すなわち「主は既に来られた」、「主は共におられる」ということを実感しました。そして初代教会の人々は慰められ、励まされ、困難な時代の中でも信仰を持って歩み通すことができたのです。これも聖霊の働きです。
 その時、私たちは、この出口が見えない問題だらけの世界の中にあって、希望を新たにして歩んでいくことができるのです。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 10:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年07月14日

7月3日 説教要旨

御名があがめられますように

2022年7月3日 聖霊降臨節第5主日・(宣教への派遣)
マタイによる福音書 第6章9節
牧師 木谷 誠

 私たちは、毎週の礼拝で、主の祈りのメッセージを分かち合っています。主の祈りの構造を確かめておきましょう。冒頭の「天におられる私たちの父よ」という呼びかけの言葉、続いて具体的な願いが七つ続きます。本日はこの主の祈りの具体的な第一の内容に込められたメッセージをお伝えし、その恵みを皆様と分かち合いたいと思います。「御名があがめられますように」、この祈りは神について祈ります。自分についてではありません。祈りというと自分のこと、自分の願いがまず初めでありそうな気がします。しかし、この最初の祈りは、祈りは本来、まず初めに自分のことを祈るようなものであってはならないという姿勢を示しています。先週もお話ししたことですが、祈りの順番はとても大切です。順番がメッセージになっているのです。
 イエスが教えた主の祈りは、まず神について祈ります。自分が中心ではなく、神が中心なのです。イエスは、この祈りの中で、自分ではなく、神を第一とすること、神のことを中心にして生きていくことの大切さを教えています。そしてそれこそが人間の本来のあり方であり、真の幸福へとつながっていくのです。
 ところで主の祈りの日本語訳はいくつかあります。2000年に日本カトリック司教協議会で認可された訳ではこの第一の祈りは「み名が聖とされますように」となっています。この「聖とされますように」という言葉は主の祈りの原文に近いニュアンスを伝えています。この「聖」という言葉は、「区別する」という意味があります。神の名、すなわち神ご自身が、他の一切から区別されますようにと願うのです。私たちは神を尊んでいます。しかし、神の横にいろいろなものが並んでいないでしょうか?さまざまな物質や価値観、欲望、人の目、道徳感などが神に並んでいて、自分の都合で使い分けていないでしょうか?その時、私たちは神を尊んでいるふりをしながら、実は自分の都合の良い「幸福」が一番の価値となっているのです。結果として、私たちは神を私たちの「幸福」追求の手段、道具としてしまいます。私たちは、神を尊んでいるとしながら、実は神よりも自分の欲望や価値観を優先してしまっています。結果として、そこには大きな偽善と嘘が生まれています。私たちは、そのような大きな過ちを犯してしまいます。その時、この主の祈りの「み名があがめられますように」が、私たちを正しい信仰へと戻してくれるのです。
 そしてこの祈りは、私たちをより純粋な神への愛へと導きます。純粋な愛には、損得勘定がありません。何よりも愛するものが大切です。私たちが神を何よりも大切なものとしているか、私たちの愛は、祈りは、そのような神への純粋な愛を目指しているか、それとも神を自分の欲望達成の道具にしているか、そのことがこの主の祈りの第一の祈りによって常に吟味され、私たちを正しい歩みへと導いてくれるのです。この祈りを祈ることによって、私たちの神に対する態度、姿勢が改められ、神を神として何よりも尊ぶ生活を送らせてくださいと願うようになります。神を何よりも信頼しうる者とし、神を何ものにもまさる富とすることが大切であるとイエスはこの祈りを祈ることを通して教えています。祈りとは、本来、この世の富や職業よりも神を頼みとし、神が私たちの神であることを最上の幸福として喜ぶことができるようにと願うことであるとイエスは教えているのです。
 でも、そのようなことが、どうしたら可能なのでしょうか。私たちの罪、不信仰は自分の努力によって克服できるほど簡単なものではありません。しかし、「人間にできることではないが、神にはできる。」とイエスは言われました。私たちがこの祈りの本当の意味を知って、心を込めて祈るとき、神が聖霊によって、わたしたちをこの祈りにふさわしい者へと変えてくださるのです。私たちは「み名があがめられますように」と祈り、その祈りにふさわしい者となれるように、その祈りのふさわしい生活が送れるようにと日々この祈りを捧げましょう。聖霊は、この祈りを実現するために、私たちにそれぞれに応じて、「み名を崇める」生活へと導いてくださいます。人「み名があがめられますように」。神を何ものにも増して尊び、神の身を崇めて生きる生活へと導かれるようにとの願いを込めて日々この祈りを捧げてまいりましょう。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 08:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

6月26日 説教要旨

天にいますわれらの父よ

2022年6月26日 聖霊降臨節第4主日・(悪霊追放)
マタイによる福音書 第6章9節
牧師 木谷 誠

 先週から主の祈りを礼拝説教で取り上げ始めました。先週は序論、今回より本格的に内容に入っていきます。実は主の祈りの次には、十戒がいいかな、などと考えております。そのような中で思わされたことがあります。それは最初の一言がとても大切なのだということです。十戒ならば、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト記第20章3節)」この最初の一言が一番大切で そこから全てが始まるのだと思わされます。
 主の祈りも同じです。この最初の神への呼びかけ「天におられるわたしたちの父よ」という一言がとても大切で、全てはそこから始まる、この一言がなければ、主の祈りは成り立たないと思わされました。本日はそのことをお伝えします。今、ちょうど信仰入門講座を行なっています。テーマは「祈り」です。その中で祈りの構造について先週はお話ししました。祈りで一番大切な要素は初めになされる神への呼びかけです。誰に向かって祈るのか、誰を神とするか、誰により頼むのか、すべてはそこにかかっています。そこを間違えると祈りは成り立ちません。主の祈りにおいて呼びかける相手は「天」におられます。「天」は空や宇宙のことではありません。「天」とは、人間が決して辿り着くことのできない神の座を意味しています。私たち人間と神との間には、人間からは決して辿り着くことのできない隔たりがあります。人間は「造られたもの(被造物)」であり、神は「造った方(創造者)」です。そのような「天」と「地」という絶対的な隔たりを超えて、神は私たち人間に対して、「父」として愛情を持って接してくださいます。そして、愛の交わりを持ってくださる方だということがこの初めの一言に示されています。罪深い私たちは、そのままでは神との交わりをいただくことはできません。イエス・キリストが十字架においてご自身の命を捧げ、私たちに代わって私たちの罪を償ってくださったことにより、罪が赦され、私たちは神との間に「父」と「子」のような愛の交わりをいただくことができたのです。これはけっして「当たり前」のことではありません。とても「ありがたい」ことなのです。
 このように神を「父」と呼んで祈りを始めなさいとイエスは教えています。イエスはこの主の祈りを通して、わたしたちを神との愛の交わりの世界へと招いているのです。天にいます方が 私たちの父となってくださるのです。
 わたしたち、主の祈りのひとつひとつを丁寧に味わい、その恵みの素晴らしさを共に喜び分かち合ってまいりましょう。そして主の祈りがもたらす神との間に実現した「父と子」の喜ばしい愛の交わりの世界へと歩んでまいりましょう。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 08:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする