2020年09月28日

9月20日 説教要旨

声を知る

2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日・創立記念礼拝
ヨハネによる福音書第10章1-6節 
牧師 木谷 誠

 私たちの今治教会は、創立141周年となりました。1879年9月21日、アッキンソン宣教師、新島襄を迎え、教会設立礼拝、横井時夫の牧師任職、按手礼が行われ、今治教会として歩みが始まりました。以来、今治教会は、今治のみならず、松山、東予地域の伝道の拠点となりました。また今治市の中心産業の担い手を多く生み出し、教育、福祉などを含めて、今治市の近代化に大きく貢献しました。そんな過去の歩みを導いてくださった神に感謝し、これから新しく歩み出す時、私たちは誰を信頼し、自分を委ね、導きとするのでしょうか?ヨハネによる福音書のメッセージを分かち合いたいと思います。
 ヨハネによる福音書において、イエスの言葉に多くの人が戸惑い、よく分かりませんでした。10章41節「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」というイエスの言葉もファリサイ派の人々にはわからなかったことでしょう。ファリサイ派の人々は、律法をよく学び、守っていました。だから自信がありました。自分たちは神をよくわかっている、「見えている」。他の人とは違う。「罪人」とは違うという自負があったことでしょう。
 だからイエスの力ある業や教えを聞いても、受け入れようとはしませんでした。先週の聖書箇所ヨハネによる福音書第8章46節「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。」とある通りです.ではなぜ、ファリサイ派の人々はイエスを受け入れなかったのでしょうか?それは彼らが知らず知らずのうちにおごり高ぶっていたからだと思います。自分たちは、清い者である、他の「罪人」たちとは違う。そのおごり高ぶりが、彼らに真理をもたらすイエスの言葉を受け入れ難くしていたのでしょう。しかし、神の御心はイエスを通して伝えられます。10章7節にある通り、イエスは「羊の門」であり、同時に「良い羊飼い」なのです。このイエスを通して、神は救いを伝えられます。そのイエスを受け入れない者は、羊の門から入ろうとしない盗人だと、イエスは言っているのです。
 ところで皆さんが羊だったら、自分を任せるのは、盗人でしょうか、それと羊飼いでしょうか?答えは明らかです。羊が羊飼いでななく、盗人に自分を任せてしまったら破滅です。あのイエスを裏切ったユダはその罪を後悔し、祭司長や長老たちに「私は罪を犯しました」と告白しました。その返事は「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」でした(マタイ27:4)。ユダは自殺しました。もうそれしかなくなってしまいます。イエスならどうだったでしょうか?「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ10:45)。」イエスは罪人の救いのために命を捧げられたのです。私たちはこの方によって救われました。誰を羊飼いにするかを間違えるとこれほどまで違うのです。
 創立記念日に際し、このヨハネによる福音書の物語私たちがまず教えられる大切な第一の事柄は謙遜です。思い上がってはなりません。思い上がりは大切なイエスの言葉から心を閉ざしてしまいます。そして大切な第二のことは、低い心でイエス・キリストを受け入れることです.イエス・キリストを「羊の門、良き羊飼い」として、受け入れ、素直にイエスの言葉に従う者となることです。
この方の導きなくして、正しい道を歩んでいけるほど、私たちは強くありません。そのことを覚え、導き手である羊飼イエス・キリストに聞きつつ歩んでまいりましょう.羊飼であるイエスは常に羊である私たちの名を呼んで導き出そうとしてくださっています。その声に常に聞き従い、イエスの声を知るものとして歩みましょう。
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2020年09月23日

9月13日 説教要旨

偽り者の言い分

2020年9月13日 聖霊降臨節第16主日
ヨハネによる福音書第8章37-47節 
伝道師 𠮷川 庸介

 本日の聖書箇所には、「偽り者」という単語が出てきますが、この言葉を直訳すると「嘘をいう人」であります。彼らに対し、イエスは「あなたたちは神に属していない」といった厳しい言葉を投げかけ痛烈に批判しています。とはいえ、偽り者と呼ばれる人たちは意図的に嘘を言うのではなく、彼らなりの信念をもってイエスの言うところに反対しているのです。そんな彼らの信念の、一体どこが偽りありと言われているのかを明らかにし、神が求められることを読み解いて参りたいと思います。
 偽り者と呼ばれた人々は、かつて神より祝福されたアブラハムの子孫であると語り、また姦淫により生まれたのではないとも語っています。これらの言葉は、先祖がアブラハムとの誇り、そして先祖代々律法を守ってきたとの自負を読み取れます。ゆえに、イエスによる罪からの解放、真理を理解しない、といった言葉に対し、我々は十分に条件を満たす者である、という思いが前面に押し出され、イエスの言葉に反発を覚えているのです。しかし、このような「偽り者」達の自分への理解というものは、やはり誤りなのです。イエスが罪とか、真理と言われることの根本には罪についての理解が付随します。罪とは、律法を破り、犯罪に手を染めてしまうことを指すのではありません。ここで言われる罪とは、神に従わないことを指します。そもそも、神に従うとは一体どのような意味でありましょうか。
 それは、「ただ」律法に従うことではないことであります。律法に従うとは本来、自分とはどうしようもなく利己的であるとか、過ちを犯す弱い存在であることを自覚し、悔いながら神にこうべを垂れ、従うことを指します。律法に対し、形式的に従っているだけの状態や、自分はなんら罪に汚れる「行為」はしていないという点を強調することは、全く論点が異なっているのです。罪を犯さないことの始まりは、倫理的に正しいか、ということでしょう。偽り者達はそれは守れていたかもしれません。しかし、もし罰せられる法律がなければ、彼らはそれを守っていたことでしょうか。また、心に抱くことすらもあってはならぬこと、例えば相手を憎むことが無いと言い切り、律法に書かれていることを守っていると、神を前にして背筋を伸ばし、自らの潔白を誓えるのでしょうか。少なくとも私などは、口が裂けたとしても誓うことなどはできないと言わざるを得ません。
 かつて律法を課した神は、人が多くの場合守りきれないことをよくご存じでありました。ゆえにイエス、という方を私たちのために送られたのです。イエスが十字架にかけられたのは、まさに人の罪―心の汚れ、傲慢、己を偽る心―のためでした。このように、あらゆる汚れを負わされながらも、イエスは私たちに向かって、このあらゆる汚れを背負い、私はお前たちをゆるすと語り、自らの運命を全て受け入れて死なれたのであります。
 己の罪深さを認めることは計り知れない難しさがあるものです。それゆえに、時には神の真意はこうあって欲しいとの願いを抱えることがあります。気がつかないうちに、神が願われていた真意をねじ曲げて偽りを言う者−すなわち、偽り者−となるのです。しかし、己の至らなさを認めることなく形式的に良いとされること、すなわち、ただ律法に従うことを行っていた人々をイエスは非難されたことを、そこに神の真意があることを心に刻み、己を振り返りつつ歩む者でありたいと思うのです。
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2020年09月13日

9月6日 説教要旨

光の子として歩みなさい

2020年9月6日
聖霊降臨節第15主日(新しい人間)
エフェソの信徒への手紙5章11-20節
牧師 木谷 誠

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5:8)との言葉はとても大切です。神様に背き、罪に縛られ、暗闇にいた私たちが、イエス・キリストにより、罪のゆるしを受け、神様との愛の交わりに入れられました。この神様の恵に感謝し、応えて生きるにはどうしたら良いでしょうか?
 大きく二つに分けて言うことができます。一つは「神様に喜ばれるように」生きる、一つはその裏返しとして「神様に悲しまれないように」生きるということです。前者は善(神様に喜ばれること)を行う生き方、後者は悪(神様に喜ばれないこと)を行わない生き方です。10節では、主に喜んでいただくために、自分の思いと言葉と行い(生き方全体)を吟味しなさいと勧めます。続いて11節では、悪から離れることが勧められます。悪の誘惑はとても恐ろしいものです。常に主に助けを求めなければなりません。そしてさらに悪を行う人を見たならば、その罪と過ちを指摘してあげなさいと勧められます。明るみに出しなさいとは、人前でその人の罪を暴き出しなさいということを必ずしも意味しません。「明るみに出しなさい」とは神様のみ前に明らかにしなさいということです。その人の行動や思いや言葉を、神様の御心に照らして吟味するようにしなさい。その人に考えてもらいなさいということです。そしてその人が自分で罪に気付いて悔い改めることができるように導いてあげなさいと勧められます。これは勇気のいることですが、大切です。自分では気づかないうちに、罪と過ちを犯していることがあるからです。兄弟姉妹からの「耳に痛い言葉」を素直に受け止めることもとても大切です。そのようにして私たちは、罪から離れ、闇から光へと帰っていくことができるのです。
 さらに神様に喜んでいただく者として歩むためには、賢い者となることが必要です。賢い者とは?賢い者とは勉強ができる者とか頭が良い者ではありません。「知恵ある者」のことです。そして真の知恵ある者とは、常に主を畏れる者のことです。「主を畏れることは知恵の初め。(箴言1章7節)」。とある通りです。では「畏れる」とは?ここで「恐れる」ではなく、「畏れる」という字が用いられていることに注目したいと思います。「恐れる」という時、そこにあるのは恐怖で縛られたとても貧しい関係です。信頼感もなければ親しみも愛も存在しません。しかし、「畏れる」という意味はもっと豊かです。相手を敬い、信頼し、その導きに委ねる、親しみをもって呼びかける、常に心に留める。そのような意味で主を「畏れる」者こそ、真の知恵ある者、賢い者なのです。そして主を「畏れ」、敬い、常に心に留め、主に呼びかける中で、主は聖霊を私たちにくださいます。この聖霊に満たされる時、私たちは恵に満たされ、心燃やされて、主をほめたたえ、感謝して歩んでいけるのです。
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2020年09月06日

8月30日 説教要旨

霊に従う生き方

2020年8月30日
聖霊降臨節第14主日(霊に従う生き方
ローマの信徒への手紙7章1-6節 
牧師 木谷 誠

 「律法」?一体何のことでしょう?律法は、神様によって、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルが、その恵みに応えて生きるのはどうしたら良いかを記した文書です。ただ、長い年月の中で、時代の変化に合わせて、律法を解釈する中で、その理解も変化してきました。パウロは、律法を「人間の努力で救いを得ようとするための方法を示したもの」と理解しました。そのように律法を受け止め、律法を守り、実践することによって、パウロは救いを得ようと必死で努力しました。しかし、律法を守り、実践して、救いを得ることが不可能であるとパウロは悟ったのです.律法が良いことであることはわかりますが、それを守り、実践する力がないのです。だから、律法を守ろうとすればするほど、守れない自分を思い知らされる。実践しようとすればするほど、実践できない自分を思い知らされることとなったのです。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。(第3章20節)」とある通りです。
 そのような中でパウロは、イエス・キリストの恵みを示されました。それは律法を守れない、実践できない罪深い自分を救うために、イエス・キリストが、十字架においてご自分の命を捧げて罪のゆるしを実現してくださったという恵みの出来事でした。そのようにして「律法を守り、実践する」という自分の努力ではなく、イエス・キリストによって示された神の恵みを信じて受け入れることによって、救い、すなわち罪のゆるしと神との永遠の愛の交わりへをいただくことができるという福音の真理を示されたのでした。この福音により、パウロは、律法を守り、実践しなければ救われないという恐怖からも解放されたのでした。
 そのようにしてイエス・キリストを主と信じ、イエス・キリストと結ばれた者は、感謝と喜びをもってこの恵みに応え、「神に対して実を結ぶようになる」ことを目指して生きるようになります。「実を結ぶ」とは、「神を愛し、人と人とが互いに愛し合うこと、愛の業に励むこと」です。それは社会的に立派な業績を上げることと必ずしも一致しません。人の目には、実を結んでいるように見えなくても、神様の前では立派に実を結んでいることも沢山あるのです。神様は、人が気づかないことでもちゃんと見ていてくださいます。認めてくださいます。そして「実を結んだ」と評価してくださるのです。
 そのよう実を結ぶ生き方、神様に喜ばれる生き方をなしていくためには「霊に従う」ことが必要です。ここでの「霊」とは、聖霊のことです。聖霊は神様の目に見えない働き、または力を意味します。神様はこの霊(聖霊)を私たちに注いでくださいます。そのために私たちのできる身支度は、聖書を読み、祈ることによって与えられます。今日の私たちが聖霊をいただくときに最も大切な方法は聖書を読むことであり、祈ることです。
 この霊(聖霊)の導きを求める時、私たちに、具体的な導き、成し遂げる力が与えられます。そのようにして私たちはイエス・キリストに結ばれ、神に対して実を結ぶものとして歩んでいくことができるのです。
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2020年08月31日

8月23日 説教要旨

人の限界について問う

2020年8月23日
聖霊降臨節第13主日・神からの真理
ヨブ記28章12-28節
伝道師 𠮷川 庸介

 聖書は多くの人を魅了し唸らせてもきましたが、その中でもヨブ記は格別の魅力を感じる人が多い事でしょう。ですが魅力とともに、理不尽さについても思うに違いありません。この世界には因果応報論という考えがありますが、ヨブ記はその因果応報論でこの世界は説明することなどとてもできないことを教える書物であるからです。
 お読みいただいた28章は知恵の讃歌と呼ばれる「知恵」について語る箇所です。27,29章でヨブが自分の潔白さ、神に従うことの正しさを語っている中、唐突に知恵について語り始める28章はどこか前後と噛み合わないように思えます。そこで、28章冒頭からその真意というものを読み解いて参りたいと思います。
冒頭部分からは、金や宝石など、鉱物には取り出される場所があることがあり、その場所は猛禽や勇猛な獣では見つけることができず、山を崩し、時に川さえも堰き止める技術を持つ人間だけが可能だと語られます。ここには、人が他の何者にも増して特別な存在との自負、傲りともいえる思いを読み取れます。
 しかし、その自負を抱かせたあとに問いかけてくるのです。人間は他の何者も見つけ出せない鉱物や宝石を見つけ出すが、では、「知恵」はどうであるか。知恵は創世記における深淵を指す淵や、時に生命の始まりの場とも呼ばれる海には無く、また金や宝石をでは手に入れることができないと語られます。さらに、畳み掛けるようにして淵にも海にもない知恵はどこからきたのかと問いは続きます。
 この問いについて、誰もが行き着く滅びの国や逃れられない死も知らないとあり、答えが困る問いかけですが、おそらく知恵とは「神によってのみ」見つけ出されることが可能であるのだろうと、ぼんやり分かる気がします。とはいえ、これはおおよそ予想がつく結論であり、結局人にはできないことを神ができるという事実や、聖書的に分かり切ったことを言うために、小難しいことを言っているのかとすら思えます。
 しかし、この分かり切ったとも思えることを通し、27,29章、さらにはヨブ記全体との関係が見えてくるのです。ヨブは自分が正しいことを確信し、友人たちに対して反論を行っています。そこにはヨブ自身が、たまたま自分が考えたように世界や日常が動いてきたためか、私は世の中の真理を知っていると言う傲りの強さがあります。この世の真理や法則は、ただ神ご自身だけが知っているにもかかわらず、です。それはヨブを通し、私たちにも教えられることです。では、そのことに私たちが気がついた後、どのようにすればいいというのでしょうか。
 それが28節主を恐れることが知恵で悪を離れることが分別である、との応答です。かの有名なソクラテスの言葉に「無知の知」という言葉があります。これは「自分が無知である事を知ること」という意味です。世の中は理不尽で、不可解なことだらけであり、それを解き明かしたいとは思います。ですが、その真理を本当に知っているのは神のみであり、人には知ることができないのだと。それが人間の限界があるのだと言うことを悟り、謙虚な思いを時に思い起こしながら、歩んで参りたいと思います。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 12:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする