私たちが住む神の家
2022年7月24日 聖霊降臨節第8主日・(神からの真理)
テモテへの手紙一 第3章14-16節
伝道師 𠮷川 庸介
この手紙はエフェソの町での教会運営に対して苦心していたテモテへの励ましが記されており、この3章には主に監督や執事、つまり教会教師や教会を運営する役員という立場について書かれています。組織の運営や監督と言われると、その人が社会でどれだけ実績を持っているかとか、どんな地位を持っているかということが思い浮かびます。ですが、ここでは一人の人を愛し続けよ、お酒に溺れない、乱暴を働かず、がめつくもなく、自分の家庭を大切にするそんな人でなくてはならないのだ、ということが並んでおります。どれだけお金を持っているか、どれだけの社会的な地位にあるか、どんな人と交流があって・・・ということではなく、どれだけあなたは教会の理論、いうなら聖書に書かれていることに耳を傾けてイエスに繋がっていられるか、ということが問われているのです。
実際のところパウロが伝えようとしていたことは、教会とは、地上にあって主の体でもあるこの教会とはなんであろうか、組織されて運営されるにあたり、何が大切なのか、ということが核心としてあることでしょう。
ただここで注意したいことは、ここでパウロがいう教会は現実世界で建てられて運営されている教会のことだけを指していないという点です。教会とは、神の独り子であるイエス・キリストに捕らえられ、首を垂れて自分の罪を告白する人々の間、「神の国はあなたがたの只中にある」という言葉があるように、そこに宿るのです。その只中にある教会は、イエスが私たちのために死なれ、私たちは今ここに生きることを許され、そして義とされている人々によって成されています。
そこは、15節にも出てくるように、神の家であり、神を父とし、イエス・キリストをその独り子として仰ぐ共同体であり、パウロが「真理の柱であり土台である生ける神の教会」と語っている通りです。そこにあって大切なのが信心の秘められた真理であります。「キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」と賛美されているように、これを確信として、いつも中心に据えておかなくてはいけないのでしょう。この賛美に言い表されている真理は、強いられて行われるものではなく、行わずにはいられないことが大切です。そこで大切になることは、教会の中心にいるのは人ではなく神でなくてはならないのです。
私たちは、時に世間との乖離に苦しみながらも、この教会という場所、人々の間にある教会ではなく、そこを端として建てられた目に見える教会へと留まります。その中心に据えられているものが何よりも大切であると考えているからであるはずです。しかし、もしその苦しみから逃れようと世間の評価や考え方によろうとするならば、全く神から出てこないものによるもので、形だけを保っているにすぎない組織へと陥ってしまっていることを意味するからです。それは、人によって運営され、神による御旨を問いかけることをやめてしまった伽藍堂でしかないというわけです。
教会に生きる私たち自身、常に地上の価値観と天上の価値観の間で揺れ動かなくてはなりません。その揺れ動きが、時として自分の立ち位置を曖昧なものとし、自分がどこにいるかを分からなくさせるでしょう。
でも忘れてはいけないこと、心しておかなくてはいけないだろうと思うことは、そこにいる牧師も役員も奉仕者も、それ以外の人であろうと、皆もとは欠けたところを持つ罪人であるということでしょう。そうであったけれども、キリストの十字架によって罪赦され今ここにいることができているという事実があるはずです。私たちは、今あるこの神の家は、神を中心に据えているのだろうかといった中心にあるべきものを省みつつ過ごしていくことが大切なのではないでしょうか。
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