2021年07月13日

7月4日 説教要旨

悪霊との戦い

2021年7月11日
聖霊降臨節第8主日(生活の刷新)
使徒言行録 第19章11-20節
牧師 木谷 誠

 本日の聖書で、使徒パウロは、若い伝道者テモテに、支配者をはじめ、全ての人のために祈ることを勧めています。私たちは「全ての人」をどう理解したら良いでしょうか?それは、自分の仲間、自分に良くしてくれる人、自分に都合の良い人のためだけに祈るのではありません。それに加えて、自分に良くしてくれない人、自分を迫害する人、自分を傷つける人、自分に都合の悪い人のためにも祈りなさいということです。祈りは、自分の願い事を神様に申し上げることで終わってはいけません。自分の都合や好き嫌いに関係なく、全ての人のために祈ることが求めれられています。なぜなら神様は一人の例外もなく、全ての人を愛しておられるからです。そして全ての人が罪をゆるされ、神様の愛を受け入れ、神様との愛の交わりに入るために、イエス・キリストは十字架にかかられたのです。これはイエスの「山上の説教」とつながります。「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。(マタイによる福音書第5章44-45節)」この愛を伝えるために、パウロも、この手紙の受取人であるテモテも、神様から遣わされました。そして私たちも、神様の愛を今治の町に伝えるために遣わされているのです。
 祈りの中身は具体的には、願い、祈り、執りなし、感謝です。大まかに整理すれば、願いは自分のことについて願うこと、祈りは神様に色々なことをお話しすること、執り成しは誰かのために祈ること、感謝は文字通り神様に感謝することです。これらに祈りの初めの呼びかけと締め括りの「主イエスの御名によってアーメン」を加えたら祈りになります。ここでは「執り成し」の大切さが強調されています。
 「祈れないほど忙しい?」、私の大好きな本です。内容も良いのですが、本の名前にインパクトがありますね。以前、あれこれ忙しいと祈りがついつい疎かになりそうなことがありました。そんな時にこの本と出会ったのです。読む前から、このタイトルに「やられました」。一日は24時間(1440分、86440秒)あります。その中で祈る時間がないというのはどういうことでしょうか?そこで試しに主の祈りを唱えてみました。そして時間をはかりました。どれくらいかかったでしょうか?かなりゆっくり唱えて、途中で一回くしゃみをしても41秒でした。とても短い時間です。そんな時間すら取れないのは、時間の問題ではなく、心の問題です。日本語では、「いそがしい」は「心が亡くなる」と書きます。昔の人はやっぱりえらかったのですね。大切なことは最初にやりましょう。後回しにしたらできなくなります。朝起きたらまず祈る。寝る前に祈る。どんなに短くても良いからまずやってみることをお勧めします。そこから安らかな神様に喜ばれる一日が始まるのです。
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2021年07月06日

6月27日 説教要旨

心も思いも一つにし

2021年6月27日
聖霊降臨節第6主日(主にある共同体)
使徒言行録第4章32-37節
牧師 木谷 誠

 本日の聖書では、初代教会の様子が描かれています。初代教会の人々は、心も思いも一つにして、一切のものを共有していました。使徒たちの証しは、人々から好意を持たれ、貧しい人は一人もいませんでした。それはまるで原始共産制(政治的抑圧や社会的不平等のない理想的な社会)のようです。もしかしたら明治期、伊勢時雄牧師を中心に伝道していた頃の今治教会もこの様子に似ていたのかもしれません。その様子は文字にするととても簡単に見えます。しかし、これは決して簡単なことではありません。初代教会は、色々な人の集まりです。考え方も生い立ちも違います。そのような人の集まりとして始まったばかりの教会が心も思いも一つにしていたというのです。人間の集まりでは、いろいろな問題が起こり、ギクシャクしたりすることも多いです。そんな寄せ集めの集団が、お互いの違いを超えて、一つになって、あたかも家族のように一切を共有している。それは決して簡単なことではありません。当たり前ではないのです。どうして可能なのでしょうか?
 それは聖霊の働きによるのです。人々の心に働きかけ、イエスをキリスト、救い主と心から信じる信仰を与える神からの目に見えない働き、それが聖霊の働きです。さらに聖霊の働きは、個人の心に働きかけ、信仰を燃え上がらせることにとどまりません。聖霊は信じる者同士を、神様の子どもとして、兄弟姉妹として、神の家族として、愛の交わりのうちに結びつけてくださるのです。聖霊によってお互いを思いやり、支え合い、分かち合う愛の共同体が実現していくのです。
 ここでの「一つ」とは、お互いの個性を無視したり、押しつぶしたりして、無理矢理に結びつくことではありません。それはお互いの個性を生かし、お互いの違いも認めながら、しかも一つの家族のように共にあること、支え合うことです。お互いに「兄弟姉妹」、「家族」ですから、全てを共にすることに抵抗はなかったのでしょう。それらは聖霊なる神の働きによって可能となるのです。
 私たちは一つになることの難しさをひしひしと感じることがあります。みんな、イエス・キリストを信じていながら一つになれない、大きな溝を感じる時があります。この人(この人たち)とどうしたら上手くやっていけるのだろうと途方に暮れてしまいます。そのような時、どうすれば良いのか?人を見ていても問題は解決しません。本当の解決は、神様を見上げ、聖霊の助けを祈り求めることです。私たちを一つに結び合わせるのは、私たちの能力、人間性、気配りではありません。それは私たちの心に働きかけ、神様への愛、お互いへの愛を燃え上がらせてくださる聖霊の働きを祈り求めることなのです。聖霊は、そのような意味において、愛の共同体、和解の共同体を作り上げる原動力です。この聖霊は聖書の言葉を通して豊かに働きます。聖書の言葉を力あるものとします。そして聖霊の働きは祈ることによってますます深められていくのです。そのようにして聖霊を求める時、私たちは、和解の共同体、愛と分かち合いの共同体して歩むことができるのです。
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2021年07月01日

6月20日 説教要旨

神へ向ける心
2021年6月20日
聖霊降臨節第5主日(生涯のささげもの)
マタイによる福音書第5章21-30節
伝道師 𠮷川 庸介

 人を殺してはならない、ということは遥か昔から言われていることですが、イエスはそこからさらに一歩踏み込み、私たちに言葉を突きつけてきます。
 イエスは、ばか、愚か者というような罵詈雑言を浴びせて責め立てるようなことがあってはならないと教えています。また読み込んでいくと、「腹を立てる」、「ばか」、「愚か者」といった言葉に対しての罰が徐々に重くなっていることにも気がつきます。「腹を立てること」と対になっている「裁き」とは地方裁判所での裁判を指し、続いて「ばか」と言うことに対する最高法院とは、エルサレムにあった最高裁判所を指しています。最後の「愚か者」と口に出す者に対する「火の地獄」とは、エルサレムの近くにある、ゴミや罪人の死体などで埋め尽くされた、想像を絶する場所、すなわち地獄とはかくある場所、と考えられた場所を指しています。間近の事柄を例えとして使い、実感させてきているのです。
 ここで言われていることは、人を殺す前段階とも言える、相手を憎いと思う感情はもちろん、相手に抱かせることも、争いを生む原因を作ることも控えなさい。さもなければ、非常に大きな罰が与えられる、といったことなのです。本来、献げ物とは悔い改めの儀式ですが、人と人との間柄でさえ関係を修復することができていない者が、神と関係をどうして修復できるのか、と問いかけているのでしょう。
 おそらくこれらは、「結果」と「過程」のどちらを大切だと思うか、と鋭い問いかけが含まれているのではないでしょうか。すなわち、罪を犯したという結果ではなく、罪を犯そうとする心を見なさいと教えているのです。
 私はイエスが批判した律法主義とは何か、という問いかけがあるならば、それは形式主義に陥ることだと答えます。神を前にして犠牲を献げたり、イエスが教えた祈りを唱えたとしてもそれが形式的なもので、心からのものでなければ、神は砂一粒ほども喜ばれないことでしょう。私たち人と人とであれば、それは分からないことであっても、それをも知るお方が神なのでありますから。その心の底を、神は見られるのです。
 そのことをより表す言葉が、1クァドランスの例えであります。このクァドランスとは、百円ほどのさほど大きくない額ですが、それだけのお金を払えないだけでも、一度有罪になった者は、牢から出されることはありませんでした。ここでは裁判官たる神を前にして、ほんのわずかの憎しみであっても残すのであれば、ゆるされることはないと、例え話を使って教えているのです。
それは、ほんのわずかでも心に邪念を抱かない者でありなさいということでしょう。しかしそれは、目指すことはできても成し遂げられることは非常に難しいでしょう。なぜなら、私たちは完全な存在である神によって作られた、不完全な器に過ぎないわけでありますから。神ではない私たちに、どうしてできるのか、とも思えます。
 しかし、私たちは神が和解のために欠かせない焼き尽くす献げ物として、イエスの体を献げてくださったという事実を見なくてはなりません。そこには愛する我が子を献げてでも、私たちをゆるそうとしてくださった愛があります。その事実を知ってなお、邪念を抱くことを肯定する者であってはならないことでしょう。どうか神の愛を表すその事実を心にして、神を仰ぐものでありたいと思います。
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2021年06月23日

6月13日 説教要旨

喜びなさい

2021年6月13日 聖霊降臨節第4主日(世の光としての使命)
フィリピの信徒への手紙第2章12-18節
牧師 木谷 誠

 私たちは「間の時」を生きています。何と何の間なのでしょうか?それはイエス・キリストが昇天し、再びこの世界においでになるまでの「間の時」です。
 そのような「間の時」を生きる私たちに大切な姿勢は何か?それを今日の聖書は私たちに教えてくれています。それは従順です。心を低くして、神様の御心に従う従順こそ、私たちがイエス・キリストが再びおいでになる時まで生きる時に必要な姿勢です。そしてその従順の最高の模範がイエス・キリストです。そのことについては、本日の聖書(フィリピの信徒への手紙2:12-18)の前の第2章6節から11節に書いてあります。
 「間の時」という意味では、この手紙を書いたパウロと私たちは、同じ時を生きているということができます。この「間の時」を生きる時、最も大切な姿勢としての従順について、もう少し詳しく聖書から示されましょう。「13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」この従順は、神に従うことですが、もう少し詳しく言うと、自分の内に働いている神、すなわち聖霊の働きに従うことと言うことができます。この聖霊は、私たちの内に働いて、私たちに神様の愛を注ぎ、慰め、励まし、導きます。この聖霊に「従順」に従う時、私たちはそれぞれ自分の救いの達成に努めることができるのです。「救いの達成」それは遠い未来のことではなく、今の課題です。もちろんそれが完全に実現するのは、イエス・キリストが再びおいでになる時、未来のことです。
 しかし、今、その実現のために精一杯努めることが大切であり、それを支えてくれるのが聖霊の働きです。この聖霊の働きに従順に従うことによって、私たちも、さまざまな問題山積みの「邪悪な時代」の中で、「傷のない神の子」として輝くことができるのです。大切なことは独りよがりになって、自分の力でなんとかしようとすることではなく、私たちの内に働く聖霊に依り頼むことなのです。と言っても自分の内側で「聖霊が働く」とか、「神が働く」とか言われてもピンと来ない人もいることでしょう。私もそうでした。しかし、私たちは聖書を読み、祈る中で聖霊の導きをいただくことができます。従順の「はじめの一歩」は聖書を読み、祈ることです。イエスもよく祈る方でした。聖書の言葉を自分の内に豊かに蓄えておられました。祈ること、聖書を読むことによって、聖霊の導きが与えられます。そしてその導きに従う力もまた聖霊が与えてくれます。神様は私たちをそのような聖霊の住まいとしてくださっています。この聖霊に従順に従うことによって、イエス・キリストが再びおいでになるまでの「間の時」を神様の子どもとして歩む時、私たちは「神の子」として、救いの達成に向けて歩むことができます。そして大きな喜びが与えられるのです。
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2021年06月15日

6月6日 説教要旨

この神は天地の主

2021年6月6日 聖霊降臨節第3主日(悔い改めの使信)
使徒言行録第17章22-34節
牧師 木谷 誠

 本日の聖書は使徒言行録です。この箇所は「アレオパゴスの演説(説教)」とも呼ばれます。アレオパゴスはギリシアのアテネのアクロポリスの西北面にある小高い丘のことを指します。アテネはいわば当時の「知恵の殿堂」であり、多くの知恵ある人々が様々に論じ合っている場所でした。そこでパウロは、ギリシアの人々がまだ知らない神のこと、イエス・キリストとその復活について大胆に福音を告げ知らせていたのでした。ギリシア人は知恵を愛する民ですから、パウロの話に興味を持ち、小高い丘アレオパゴスから人々に向けてその「新しい教え」を語ることを求めたのでした。これがアレオパゴスの演説(説教)です。アテネの町にはたくさんの神の像がありました。パウロはそれらが全て偶像であることに憤慨していましたが、あえてそれを表に出さずギリシアの知恵ある人々がまだ知らない神がいることを告げます。知恵に優れたギリシアの人々がまだ知らない神とは人間が作った神ではなく、人間を造った神、全ての天地万物を造られた方です。人間から何か捧げ物を受けて、支えてもらう必要もありません。むしろ人間に、必要なものを与えて養ってくださる神なのです。そして人との交わりを求められる神です。神は何物も不足していませんし、必要としていません。神は人との交わりを求められ、求める者にご自身を示してくださる方なのです。そして人をご自身の子どものように愛して、交わりのうちに入れてくださる方なのです。そして悔い改めて、人間の手で作った神ではなく、人間を造った神を信じなさいと呼びかけました。
 ここまでなら、ギリシアの知恵者たちもパウロの演説を新しい教えとして興味深く聞いたと思うのですが、ここから先が大きな問題となりました。それはイエス・キリストの復活についての事柄でした。神はイエス・キリストを遣わして、人々の罪を赦し、人々を神様の愛する子どもとして愛の交わりへと招かれました。このイエス・キリストが十字架にかけられたのち三日目に復活し、天へと昇られ、再びおいでになる時、この世界が正しく裁かれ、救いが実現することをパウロは告げたのでした。死者が復活すると聞いた途端、ギリシア人たちのほとんどは、パウロの教えを嘲笑い、相手にしなくなりました。ギリシア人たちにとって、死者が復活するなどということは、全くあり得ないことであり、受け入れられなかったのです。優れた知恵は、時としてそれが神の真理を妨げる時があります。神は、私たち人間の知恵を超えた方なのです。人間の知恵では到底理解できないことを実際に神様は起こされました。パウロも復活のイエス・キリストに出会った経験がなかったら信じられなかったことでしょう。
 しかし、パウロは復活のイエス・キリストと出会い、イエス・キリストの愛を経験してしまいました。それゆえに彼はギリシア人から嘲笑われようとも、ユダヤ人から迫害されようとも、イエスが死者の中から復活され、今も人々と共にいてくださること、信じる者は、天地、万物を作られた神との愛の交わりに入れられることを、パウロは、伝えずにはいられなかったです。
 これはギリシア人にとってはあまりにも新しい教え、しかも愚かに思えてとても受け入れられませんでした。そのためほとんどのギリシア人はこの教えを受け入れず去っていきました。まさしくコリントの手紙一第1章22節から24節にある通り、パウロが伝える救いの知らせは、人間の知恵を超えたものであり、それは愚かにも思えます。しかし、それを信じて受け入れる者には神の力、神の知恵を分かち与えてくれるのです。この教えは知恵によってではなく、信じることによって生き生きと働く教えなのです。
 私たちの知識や経験は、時として神の恵みを受け入れることを妨げることがあります。福音の喜び、神の力は、知恵によって得られるものではなく、信じることによって与えられるのです。知恵によってはたどり着けない福音の真理は、信じることによってその人の内に豊かに生き生きと働き、素晴らしい経験をもたらします。私たちも自分の知恵に頼ることなく、福音の知らせを信じることによって、豊かな神様の恵と出会い、喜びに満たされて歩んでいきましょう。

posted by 日本キリスト教団今治教会 at 08:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする