2022年07月14日

6月19日 説教要旨

主の祈り

2022年6月19日 聖霊降臨節第3主日・(伝道する教会)
マタイによる福音書 第6章5-9a節
牧師 木谷 誠

 今回より「主の祈り」のメッセージを少しずつ皆様と分かち合って参りたいと思います。
前任の幼稚園では、各学年で主の祈りを教えていました。三歳児の礼拝では、こんな感じでお話ししました。
「今日のお話は短いよ。あっという間に終わるからね。だからしっかり聞いてね。主の祈りを教えてくれたのはね。イエス様なんですよ。はい、おしまい。」
 とても短いお話しです。しかし、主の祈りを教えてくれたのはイエス・キリストであるということは、主の祈りの大切な要素です。聖書の中イエス・キリストが捧げた祈りはいくつかありますが、私たちのためにイエス・キリストがわざわざ教えてくださった祈りはこれただ一つなのです。ですから、主の祈りは教会の最も大切な「宝物」の一つであるということができます。また、主の祈りは、祈りでありながら、私たちの信仰の大切な要点を教えてくれます。
 第一の点は、祈りは「隠れたところにおられるあなたの父に」向かって祈るということです。「隠れたところ」とは「目に見えない」ということを意味しています。私たちには「目に見えない父」がおられるということです。そしてこの方はまさしく「父」として、私たちの祈り、私たちの呼びかけに深い愛情を持って耳を傾けてくださいます。このような祈りは私たちに大きな慰めと安らぎをもたらします。
 第二の点は「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」ということです。神様は全てをご存じです。親が子どもの願いを聞いて、よく考えてその子どもにとって一番良いことをしようとするように、神様は「父」として私たちの祈りの呼びかけを聞いていてくださり、最も良いことをもって応えてくださいます。
 第三の点は、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」ということです。だったら祈る必要がないのではないかと、実は私も思いました。そうではありません。親であれば、可愛い子どもの話であれば、どんなことでも、わかっていることでも、同じことの繰り返しでも、喜んで聴くように、神様は「父」として、愛する「子」である私たちの祈りは、内容が分かりきっていたとしても喜んで聴いてくださるという意味なのです。それくらい神様は「父」として私たちを愛してくださっているということがこの言葉に込められています。
 第四は「だからこう祈りなさい」です。イエス・キリストが、私たちのためにこの祈りを考えてくださいました。この祈りは、イエス・キリストから私たちに送られた愛のこもった贈り物なのです。とても嬉しいことではないでしょうか。素敵な贈り物をいただいたら、心から感謝し、それを大切にします。私たちもこの主の祈りをくださったイエス・キリストに心から感謝し、大切にしたいと思います。その時、この「贈り物」は私たちに大きな祝福をもたらしてくれるのです。
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2022年06月14日

5月15日 説教要旨

つながって実を結ぶ

2022年5月15日 復活節第5主日 (神の民)
ヨハネによる福音書 第15章1-11節
牧師 木谷 誠

 教会の暦ではキリストの昇天から聖霊降臨日に向けて歩んでいます。十字架の死と復活の後、イエスは天に帰られます。弟子たちは地に残ります。そのような別れを見据えつつ、イエスは別れの挨拶を語っています。
 本日の聖書は二つの要点に整理されます。一つは「つながり」、もう一つは「実を結ぶ」です。この2点に整理して聖書のメッセージを分かち合いたいと思います。
 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。第一に「つながり」について、イエスがぶどうの木の幹なら、私たちはぶどうの木の枝です。枝が幹とつながって実を結ぶように、私たちはイエスとつながって実を結ぶのです。イエスとつながらないならば、わたしたちは実を結ぶことができません。私たちがイエスと「つながる」という営みは、具体的には、日々聖書を読み、祈り、礼拝や集会に参加すること、また神様の恵みに応えて愛の業に励むこととなります。
 ここで私は大きな問題に突き当たりました。私たちがイエスとつながろうとするから、イエスが私たちとつながってくださるのでしょうか。私たちがイエスとつながろうと努力することが、イエスが私たちにつながってくださる条件なのでしょうか?わたしが悩んだ理由は、以前の口語訳聖書の言葉を覚えていたからです。4節の言葉は、以前の口語訳聖書にはこう書いてありました。「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。」。これならばイエスが私たちにつながる条件は、私たちがイエスにつながっていることになります。しかし、この聖書の言葉は、「わたしも」という意味はありますが、「そうすれば」という意味はありません。私が尊敬する本田哲郎神父の翻訳では「わたしにつながって(わたしの内に)いなさい。わたしも、あなたたちにつながって(あなたたちの内に)いる。」となっています。また最新の聖書教会共同訳でも、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている」となっています。私たちがイエスにつながろうとする努力はもちろん大切です。しかし、それはイエスが私たちに繋がってくださる条件ではありません。私たちがどうであろうと、イエスは私たちにつながってくださっているのです。私たちがイエスにつながろうと努める時、イエスが既にわたしたちにつながっていることに気づくのです。
 イエスは私たちより先に私たちにつながっておられます。しかし、そのつながりは私たちが意識して、日々努めないと生きた実を結ぶつながりとはならないのです。このつながりは、イエスが天に帰られた後も途切れることはありません。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。(ヨハネによる福音書第14章16-17節)この「弁護者」、「真理の霊」は、聖霊です。私たちとイエスとのつながりは、聖霊によって守られ、育てられるのです。
 第二に「実を結ぶ」ということについて考えてみましょう。「実を結ぶ」とはどういうことでしょうか?経済的な成功でしょうか?社会的に高い地位を得ることでしょうか?名声を得ることでしょうか?全部違います。それらは全て人間的な評価です。「実を結ぶ」かどうかは、神様が評価されることです。それを決めるのは人間ではなく、神様であることを私たちは先ず確かめなければなりません。私たちが、神様の恵みと愛を喜び、それに感謝して、応えて生きること、互いに愛し合って生きること、それが実を結ぶ営みにつながります。それは人間の目には見えないこともあるでしょう。しかし、神様はそれをしっかりと見ておられます。誰も見ていない時でも神様は見ていてくださいます。わかってくださいます。そして豊かに実を結んでくださるのです。
 私が岡山で働いていました時、教会の中庭に大きなビワの木がありました。下から見たらどこにも実がありませんでした。しばらくして二階に上がってビワの木を見たら、木の上の方、見えないところにたくさんの実がなっていました。人間の目には見えなくても、神様から見たらちゃんと豊かに実を結んでいるのだなと思わされ、とても励まされました。
 私たちもイエスにつながり、感謝し、聖霊によって、豊かに実を結び、喜びに満たされた人生を歩んでまいりましょう。

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2022年05月20日

5月8日 説教要旨

互いに愛し合いなさい

2022年5月8日 復活節第4主日 (キリストの掟)
ヨハネによる福音書 第13章31-35節
牧師 木谷 誠

 教会の暦は復活節からキリストの昇天、そして聖霊降臨(ペンテコステ)へと向かっています。イエスは、天へ帰られることを意識しながら、地上に残る者たちに対して最も大切な戒めを告げます。それが「互いに愛し合いなさい」です。この戒めが大切なことは明らかです。私たちは具体的にはどうしたら良いのでしょうか?まずイエスが求めておられる愛の内容をしっかりと掴むことが大切です。私たちの社会では愛し合っていても、その愛の中身や方向性が噛み合わないためにすれ違ってしまい、不幸を招いていることが多くあります。そうならないそのためにイエスは言葉を補ってくださいました。それが「私があなたがたを愛したように」です。常にイエスがわたしたちを愛してくださったことを思うことです。
 イエスの愛、イエスの言葉、イエスの生き様は、私たちが互いに愛し合う際に二つの大切な意味があります。まず第一にイエスは私たちが互いに愛し合う時の「力の源」です。私たちが互いに愛し合うためにはお金も財産も体力も権力も必要ありません。必要なのは愛だけです。でもこれが最も難しいことなのです。現在、ロシアによるウクライナ侵攻が続いています。毎日膨大なお金、技術、人力が注がれています。人類の叡智が結集して行なっていることは戦争という大量殺人です。なんと悲しいことでしょうか。人類は多くの知識と技術と経済力を手にしましたが、互いに愛し合うという「技術」は未だに得ていないのです。この最も単純で最も大切なこと、互いに愛し合うことは、実は物凄いエネルギーを必要とします。愛の具体的な中身についてはパウロがコリントの信徒への手紙一第13章4-7節に示しています。私たちが、愛を実践するためには、忍耐が必要です。私たちは、常に相手にとって良いことを考え続けなければなりません。心の動揺を抑えて、信じ続けなければなりません。そのような愛を実践するために必要なことは、まず自分が「愛されている」ことを実感することです。イエスがわたしたちを愛してくださっています。過ちを繰り返す、愚かなわたしたちをイエスは忍耐し、ゆるしてくださり、最も良い道へと導いてくださいます。私たちが互いに愛し合う時、必要な第一のことはイエスから愛されていることを知ること、イエスとの愛の交わりを経験することです。聖書の言葉に聴き、祈り、共に礼拝を守ることにより、この聖霊をいただいて、神から、イエスから愛されていることを実感する時、愛の交わりを体験する時、私たちは互いに愛し合うエネルギーを与えられるのです。
 第二にイエスは私たちが愛し合う時の「模範」です。常にイエスの言葉、行い、思いを心に留め、その良き模範に習うことが私たちが互いに愛し合うために必要です。そして実践することです。イエスに愛され、イエスに救われた者は、その愛に感謝し、応えることへと導かれていきます。それは決して簡単なことではありません。しかし、イエスと同じになることは不可能であっても、イエスを良き模範として、イエスに倣って生きようと努めることには大きな意味と喜びがあります。
 例えば幼児が親の愛情に応えて、折り紙を折ってくれたとします。上手ではないかもしれません。でも親にとって、その折り紙は何にも変え難い大きな喜びでしょう。親は喜んでその子を抱きしめ、祝福し、ますます愛情を注いで育てようとするでしょう。イエスの愛に応えて、私たちが日々捧げる愛の思いと行いは、拙い、未熟な不器用なものかもしれません。でもイエスは、私たちの愛の応答を心から喜び、祝福してくださいます。そしてイエスは聖霊を通してもっともっと大きな愛を注いでくださいます。愛の「倍返し」です。そしてイエスはわたしたちをより良い者へと育ててくださいます。わたしたち一人一人がイエスの愛をいただいて、感謝し、喜び、精一杯応答して、日々愛の実践に励めば、それで良いのです。不完全で良いのです。イエスと似た者となることは、私たちの目標です。しかし、イエスと同じになることまでは私たちに求められていません。
 聖霊を祈り求め、イエスの愛をいただいて、それを喜び、その応えて、互いに愛し合う者として歩んで参りましょう。
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2022年05月10日

5月1日 説教要旨

良い羊飼い

2022年5月1日 復活節第3主日 (まことの羊飼い)
ヨハネによる福音書 第10章7-18節
牧師 木谷 誠

 本日の聖書でイエスはご自身を「羊の門」にたとえています。「羊の門」とは羊がエルサレムの都に入る入り口ですが、この聖書の文脈では「羊の囲いの門」という意味なのかもしれません。その門を通って羊は危険を逃れ、保護を受け、安心することができます。ですから「羊の門」は、羊の守りの象徴ということができます。イエスがご自身を「羊の門」にたとえているのは、わたしたちがイエスを通して、神様の守りと導きへと入っていくことができるということを意味しています。
 イエスはここで自分は羊を守る者であると宣言しているのです。私たちはこの羊の門であるイエスを信じることを通して、命を受けます。命を豊かに受けることができます。私たちは、イエスを通して、イエスとの交わりを通して、命を豊かに受けるのです。
 命とは交わりです。イエスを通して、命をいただくということは、イエスを通して、イエスとの神との豊かな愛の交わりをいただくということです。そしてその愛の交わりの中で、私たちは、慰められ、励まされ、導かれ、喜びをいただきます。そのようにして、イエスを主と信じることを通して、私たちは与えられた命を豊かにされます。イエスを信じることを通して、私たちは、神様から愛されて生きる喜びに満たされ、感謝して従うことができます。そして私たちはやりがいのある仕事や奉仕、良き出会い、良き友を与えられて、充実した人生を歩んでいくことができます。そのようにして私たちは、神様から愛され、祝福されていることを実感しながら生きていくことができるのです。
 さらに続けてイエスはご自身を「良い羊飼い」と宣言されます。「羊の門」という言葉には、イエスが救いの入り口というイメージあります。当たり前ですが、「入口」は動きません。これに対して「羊飼い」という言葉は、羊の名を呼び、愛し、導くという積極的、行動的な神のイメージを私たちに与えてくれます。「羊の門」がわたしたちが救いへ入る入り口という静的なイメージです。これに対して、「羊飼い」は、積極的に私たちに関わり、働きかけ、わたしたちを養い、慰め、励まし、正しい道へと導いてくださるという動的なイメージがあります。実際イエス・キリストは、積極的に人々に呼びかけ、働きかけて、神の愛を伝えました。そしてそのために命を捧げてくださいました。
 「14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」この言葉は、私にとって、とてもありがたいのですが、その一方でとても耳に痛い言葉でもあります。この言葉を読むたびに私は思うのです。「自分は羊になっているだろうか?」と。羊が羊飼いのことを知っているように、羊飼いの声を覚えているように、自分は神様の声、イエスの声を覚えているだろうか?と考えてしまいます。皆さんはいかがでしょうか?
 羊であるために求められることは、強くなることではありません。羊であるために、ライオンのような圧倒的なパワーもチータのようなスピードも必要ではありません。羊であるために必要なことは羊飼いを知っていること、羊飼いの声を覚えていること、そして羊飼いに従うことです。私たちが「羊」であるために必要なことは、羊飼いを知ること、羊飼いの声を覚えることです。そのためには聖書の言葉を繰り返し聞くこと、祈ること、そして常にへり下り、祈り求めることです。その時、聖霊という目に見えない働きをいただいて、私たちは主の羊として、与えられた命を豊かに受けることができるのです。
 岩手にいた頃、盛岡動物公園に行きました。そこで熊の親子を見ました。子熊の様子がとても印象的でした。子熊は徹底的に母グマについて行きます。子熊は絶対に母親から離れないのです。子熊はまだ小さく弱い生き物です。だから母親について行かないと生きていけません。この子熊の姿から私は教えられました。私はこの子熊のように神様から離れないように必死について行っているだろうかと考えてしまいました。この子熊のように、今日の聖書に出てくる羊のように、私たちも、ひたすら神様を仰ぎ見てついていく者、「羊」になりたいと思います。
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2022年05月04日

4月24日 説教要旨

会えないが確かにいる方

2022年4月24日 復活節第2主日 (復活顕現)
ヨハネによる福音書 第20章24-29節
伝道師 𠮷川 庸介

 私たちは復活節という大きな節目の中を過ごしております。イエスは、復活によって私たちのために約束してくださっていた、救い、罪の赦しの全てが事実であることを証してくださりました。その喜びの時を今、私たちは噛み締めていているはずですが、解き明かそうとする私自身も含め、今この時を、大きな喜びによって動かされているのかと、問われるこの時でもあります。
 弟子達は、イエスが殺されたように、自分達も殺されるかもしれないという恐れから、鍵を締めた家の中で過ごしていました。しかし、その部屋の真っ只中に、イエスは現れます。これは、イエスが霊的な体をもって復活されたことにほかなりません。また、あえてイエスは弟子達に十字架による傷を確認させています。これにより、イエスは確かに肉体を持っていたこと、すなわちただ肉の体を持たない超越者ではなく、確かにこの世に生を受けていたことが分かるのです。だからこそ、弟子達はイエスの超越性に畏怖を抱くのではなく、共にこの世界に在った方が復活されたのだと大いに喜び、イエスが与えていた約束に対して希望を抱いたのです。
 そんな喜びの物語の中に、コミカルとも言える人物、トマスが登場します。彼は復活の場にいなかったため、その復活の話を聞いてもなお疑い、傷に手を当てるまで信じないとまで言っています。そんな彼ですが、ほぼ同じ形でイエスが顕現したところ、その姿と、かけられた言葉によってすぐに信じます。最初の頑なさを知っているため、すぐさま信じることに至った彼の姿には、面白さを覚えてしまいます。
 しかし、そんな彼の姿は、現代を生きる私たちそのものではないでしょうか。現代を生きている私たちもまた、目にして触れてみなければ、信じないと思ってしまうことはないでしょうか。そして私たちはトマスと違い、復活の事実を、知っている方の復活として目にすることはできないのです。つまり、自分の体験としてイエスの復活という喜ばしい出来事を語ること、信じることができないのです。
 「確かに私はイエスの姿を見たのだ、手を引いてくださった。声をかけてくださった、」という体験談を耳にしますが、私たちは実のところ、イエスという方がどのような顔をされているのかも、どのような体つきであったかについてを何一つとして知らないのです。では復活のイエスに出会うとはどういうことなのかとの疑問が湧き上がります。
 それを思うと、イエスの「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」との言葉は、実は私たちに語られる言葉であると気がつきます。時として、言葉だけで信じるのかと揶揄する人もいるでしょう。ですが事実としてイエスが復活して現れたからこそ、人々は語り継がれる御言葉のみで、今を生きる私たちもイエスが主であることを信じております。なぜなら、それが疑う余地がない喜びであること、それがもたらす喜びと希望が何物にも勝る幸いなことであることにも気がついているからです。
 確かに、今を生きている私たちは、肉の体を持たれ、触れ合って語り合えるイエスに会うことはできませんでした。しかし主の御言葉が、体験がなくても信じさせるほどの力を持って私たちに迫ってくるのです。今この時、その御言葉に招かれているという大きな喜びを、共に噛み締めていこうではありませんか。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 15:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする